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神の家族としての新創造


『実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました』エペソ2.10。じゃあ『良い行い』って何?9月26日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙2.11-19から、「神の家族としての新創造」と題してメッセージです。

遠く離れていた私たちが 2.11-12

前回、かつての私たちは、罪の中でこの世の流れに乗っているつもりが沈み溺れ、助けすがるものが神ならぬものだったりの堂々巡りで救いがない、という話でした。そんな私たちは『異邦人』と呼ばれていました。ユダヤ人はユダヤ人以外を異邦人と呼び、異邦人が選ばれし者のしるしである割礼を『肉』に受けていなかったので、『無割礼の者』と呼んで交わりを持とうとしませんでした。異邦人は『イスラエルの民から除外され』『約束の契約については他国人』とされました。おまけに『この世にあって望みもなく、神もない者』でした。酷い書きようですが、確かに私たちからすれば、神であるキリストにどうにも結びつかない状況でした。『肉において』『世にあって』と、フィジカルディスタンス的にも、『怒りの子』として心理的にも、『死んでいた者』として霊的にも、キリストから遠~く離れていた。私たちの行いではその距離を埋めることはできませんでした。

主によって一つにされ 2.13-16

でもキリストの方からその状況を打ち破り、イエス様として私たちの世界に飛び込み、十字架にかかって血を流してくださいました。聖書では血は命です。イエス様の血が流されたということは、イエス様のいのちが私たちに向かって解放されたということです。また血が流されるために肉が裂かれました。肉が裂かれるとは神様の懐が私たちに向かって解放されたということです。エルサレムにあった神殿は何重にも壁があり、異邦人は中に入れず、ユダヤ人女性もその次まで、聖所は祭司、至聖所は大祭司が一年に一度のみと、ユダヤ人でさえ簡単に近づけない。でもイエス様はすべてを飛び越えて、誰もが1つになれるようにしてくださったのです。『こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて(創造して)平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました』。『二つのもの』とはユダヤ人と異邦人を言いますが、延いては相容れないお互いともいえます。そして『一つのからだ』は教会です。さらに『和解させ』は単なる仲直りではありません。私たちが神の子として新創造されたように、神様との関係もお互いの関係も新創造されるのです。

和解の平和を、福音として伝える 2.17-19

私たちはもはや異邦人でも他国人でも寄留者でもなく、割礼や血筋や律法も問題ではありません。イエス様の血によって『神の家族』『聖徒たちと同じ国の民(市民権)』となりました。当時ローマの市民権は人々の羨望の的で、多くの自由と特権があり、大金を払ってこの市民権を買う人もありました。私たちはただで神の子の特権を、神の国の市民権を与えられました。恵みであり賜物です。でもどうしてこの恵みを知ることができたのでしょう。『平和を、福音として伝えられ』たからです。最初のお題『良い行い』とは何か?『平和を、福音として伝える』ことではないでしょうか。この平和は、イエス様にあって回復され新たに始まる神様との関係、そしてお互いの関係です。ネットで高評価を得たり、メディアで取り上げてくれるような、大きな社会事業や世界貢献もあるかもしれません。でも誰もができるわけではありません。誰もができること。それは身近な人たちとの関係の回復と新創造。世界平和は自分の足もとから。イエス様によってもたらされたゴッド・コミュニケーション(神との関係)が、グッド・コミュニケーション(お互いの関係)を広げていくのです。これこそがグッド・ニュース(福音)なのではないでしょうか。

10月3日(日)の礼拝は、詩篇34.1-22から、「幸い。砕かれて柔らかくなる」と題してメッセージです。


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