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幸い。砕かれて柔らかくなる

私は陶芸を数年していました。購入したての土を土練機にかけ、次に手で練りに練り、さらに菊練りという練り方で空気を抜く。土の粒が細かいほど、土が軟らかいほど扱いやすい。空気が抜けていると焼くとき爆発しない。そして形を造り、素焼き、本焼きと進んで、日常使いのできる器になります。それにも似た私たちの姿が聖書にも描かれています。10月3日(日)の礼拝は、詩篇34.1-22から、「幸い。砕かれて柔らかくなる」と題してメッセージです。

苦しみを通る 表題、34.19前半

この詩篇の背景には、サムエル記第一21章の出来事があるようです。ダビデはサウルに追われる中で、祭司アヒメレクを訪ね、ゴリアテの剣を手に入れました。元々ダビデが打ち倒したゴリアテの剣。奉献していたのかもしれません。この剣を手にしてダビデは鬼に金棒になったか?いいえ。ダビデはその足でゴリアテと同族の王アキシュの元へ。ダビデは何故かアキシュの前で、門の扉をひっかき、ヨダレを垂らして気が変になったふりをします。アキシュたちの物笑いとなって追い出されてしまいます。ダビデは若い時から主を真っ直ぐに信じ、素晴らしい才能を持った、素晴らしい働きをした人です。でも『正しい人には苦しみが多い』。理解されず、憎まれ、裏切られ、命狙われる極限状態に追い込まれていた。それに耐えかねた行為だったのでしょうか?私がダビデの立場だったらどのように振る舞うでしょうか?

主を恐れる 34.7,9,11

ダビデはサウルを逃れ、アキシュの元に身を寄せようとしましたが、ゴリアテと同族の人々です。やはり非常な恐れを感じました。しかし詩篇34篇を読むと、ダビデは人を恐れるよりも主を恐れていたことがわかります。主を恐れるとは、主を怖がることではありません。主を賛美し(1-3)、主を呼び求め(4-7)、主に身を避ける(8、22)人です。苦しみが多くなるほどに主から遠く離れるのではなく、主に食らいつく人です。すると『私が主を求めると主は答えすべての恐怖から私を救い出してくださった』のです。気がおかしくなったふりは主からの知恵による振る舞いにも思えてきます。状況がどうであれ、たとえ物笑いになっても、ダビデには主の前にどうあるか、主と共にどうあるか、主にどれだけ従えるかが全てだったのです。

打ち砕かれて自由になる 34.18-19

『救い出してくださる』は「自由にしてくださる」と訳せます。苦しみが多いほど救いも自由も大きくなる。詩篇33篇でダビデは『軍勢の大きさでは救われない』『力の大きさでは救われない』と告白しました。ゴリアテの剣もあてにはなりません。ゴリアテもダビデの放った石ころ一つで倒れたのです。ダビデが主との歩みで学んだことは、トコトン主を恐れ、主に従うことでした。そして主に打ち砕かれることを厭わないということです。「打ち砕かれる」とは細か~く砕かれることです。そんなのイヤ?痛い?なくなってしまう?いいえ。『主は彼の骨をことごとく守りその一つさえ折られることはない』のです。『骨』とは「本質」という意味があります。『折られる』と「打ち砕かれる」は同じ言葉です。本質を打ち砕かれることはない。私たちはいかようにも造り変えられる。でもそれは私という本質を失うものではなく、ますます私らしく成長し、本質が実質になっていく、ということなのです。

34.20はイエス様の十字架預言。キリストは神様。世界の創造主。でも人の体をまといイエス様になってくださった。人の物笑いとなり、十字架で殺され、すり潰されるような苦しみをなめられた。これぞ極限状態。十字架刑は足を折ることで死に至らせますが、イエス様は既に死んでいたので足を折られなかった。砕かれたけれども砕かれなかった。栄光の主によみがえられた。そしてその栄光を振る舞う救いを用意された。「辛苦をなめる」と言いますが、私たちはイエス様の十字架の苦しみを味わうのです。『味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は』。私たちは自己主張や自己保身から、ついつい硬くなり、自由を失いがちです。主はそんな不自由から解放するために打ち砕いてくださるのです。苦しみが多いなら、それだけ手塩にかけられているといえます。苦しみを通して、柔らかく輝く私たちの姿が、主と共にあるのです。

10月10日(日)の礼拝は、詩篇35.1-28から、「幸い。主にあって喜び楽しむ」と題してメッセージです。


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