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幸い。突き抜ける人

私が神学生時代、「突き抜けるまで祈れ!突き抜けたら突き抜けた祈りでなお祈れ!」と、修行のような祈りをしていました。大きな声を出したり、床を叩いたり、みんなうるさいので、自分の思考や声がかき消されないようにますますうるさくなります。なんだか自分の力で、他を押しのけて、地から天へ這い上るような、一方的で競争のような祈り。家族や友人といつもそんなコミュニケーションする?それって突き抜けてんの?ダビデは苦労の多い人でした。そんな中で主によって砕かれ、柔らかにされ、どんな状態や状況でも、主によって喜び楽しみ分かち合える、自由な人になりました。こういう人こそ、突き抜けた人。そんなダビデの詩に学びましょう。10月24日(日)の礼拝は、詩篇36.1-12から、「幸い。突き抜ける人」と題してメッセージです。

突き抜けない人 36.1-4,12

『私の心の奥にまで 悪しき者の背きのことばが届く。彼の目の前には 神に対する恐れがない』。悪しき者には主に対する恐れがありません。主に向かず聞かず従わない。祈りもない。主に祈りの言葉を届けるのではなく、人の心にイヤな言葉、不快な言葉、信頼を失わせる言葉を投げ込みます。『彼は自分の判断で自分を偽り 自分の咎を見つけて それを憎む』は、悪しき者の嘘の上塗りのようなもの。彼らは自分の力で生き抜くしかありません。自分を偽り、嘘をつき、人を貶め、他人の命を奪ってでも。その嘘偽りの発覚を恐れ、不都合な真実をさらに隠蔽するため、関係のない人まで巻き込むこともあります。『彼は寝床で不法を謀り 良くない道に堅く立ち 悪を捨てようとしない』。『寝床』を「密室」としてもいいでしょう。誰にも見られず聞かれず知られないと思っている密室で、ぐるぐると悪い計画を思い巡らせている。生き抜こうとして突き抜けていない人。『そこでは 不法を行う者は倒れ 突き倒されて 立ち上がれません』。突き抜けない人の最期は突き倒されてしまう。歴史上のワンマンリーダーがそうかもしれません。でも私たちも大丈夫か?身近に起こるいじめ、虐待、ハラスメント、監禁、詐欺、汚職のもみ消しなども突き抜けない症状のあらわれではないか?突き抜けない人、社会、国。そんなニュースばかりだと、私たちは閉塞感を抱くのではないでしょうか。

突き抜ける人 36.5-9,10-12

『注いでください。あなたの恵みを あなたを知る者に。あなたの義を 心の直ぐな人たちに』。ダビデは主の懐に願いを届けます。声の大きさやアクションの大きさは関係ありません。自分の力で何かを獲得するのでもありません。主に注がれて、いただくのです。『恵み』『真実』『義』『さばき』という契約4点セットが、『天』から『雲』、そして『そびえる山』、さらに『大いなる淵』(底の底)にまで注がれる。面白いのは『主よ あなたは人や獣を救ってくださいます』。獣はある意味、人間の罪の犠牲者です。主の救いは獣にも、生きとし生けるものに豊かに注がれます(伝道者の書3.21、ローマ人への手紙8.19)。主の恵みは『いのちの泉』から湧きあふれ、『楽しみ(エデン)の流れ』となって下り、私たちに注がれる。天から底まで。人から生きとし生けるものまで。縦にも横にもスコーンと突き抜けていないでしょうか。私たちは、力を抜いて、主に真っ直ぐ向いて聞いて従って、主に祈り賛美する、双方向のコミュニケーションの中で、無理なく豊かに生きられるのではないでしょうか。私たちが突き抜けるのに必要なのは、主との普通(日常)のコミュニケーションです。ダビデはそれを『いのちの泉』『御翼の陰』『光』と表現します。常に主の泉は滾々と湧き、主の翼が私たちを守り、私たちを引き上げるのです。そして密室ではなく、開放された主の光のもとにいるのです。私たちは、主との交わりの中に、常に憩うだけでいいのです。

10月31日(日)の礼拝は、ルカの福音書6.17-38から、「神の経済学」と題してメッセージです。


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