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神の恵みの努め

家は建たら終わりかというと、そうじゃありません。持ち家であろうと借家であろうと管理が必要です。管理とは住人を縛るためのものではなく、住人が健康に楽しくノビノビ快適に暮らすためのものです。そういう管理は「神の家」にも必要です。パウロはその管理を託された人です。11月14日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙3.1-7から、「神の恵みの努め」と題してメッセージです。

神の恵みの努め 3.1-2

パウロはこの手紙をローマの自分が借りた家で書いていました。しかもローマ兵の監視つきで軟禁状態。パウロは「ローマ皇帝の囚人」でした。なぜそうなったかは使徒の働きを読んでください。しかしパウロはあえて『キリスト・イエスの囚人』と記します。復活したイエス様との劇的な出会い以来、イエス様にとらえられていたからです。前回、神の家とは神様と私たちの交わりだと言いました。私たちの世界と神様の世界では言葉一つ取ってもずいぶんイメージが違います。結構逆説的。囚人もそうです。この世界では不自由や暗さや罰などのイメージがありますが、主の囚人は自由や光や喜びの中にあるのです。だからこそパウロは『私に与えられた恵みの努め』と表現します。強制労働ではなく恵みの努め。恵みとは、私たちに絶対必要だけれども、自分たちの力では獲得できない、与えられることなくして得られないものです。パウロは神の恵みの務めによって、さらなる恵みを誰もが受け取れる形にするよう努めたのです。この『努め』が「家の管理」を意味する言葉なのです。

奥義を解き明かす努め 3.3-5

『奥義』が何回も出てきます。「外側から見ていてもわからない、中に入ってこそ分かる世界」です。『前の時代』は旧約聖書時代です。預言者たちが神様の言葉を人々に伝えましたが、その奥義は新約聖書時代の使徒が解き明かしました。その解き明かしを『啓示』と言います。使徒パウロの努めは、神の奥義の啓示を記し、誰もが理解し受け取れる形にすることでした。それが聖書。さらなる恵み。『使徒たちと預言者たち』は聖書を意味します。私たちが今聖書を読むことができるのは、パウロたちの務めがあったから。パウロはもう地上にいませんが、今も聖書を通して語りかけています。つまり、神の家の管理は、今現在生きている誰かに任せっぱなしで、私たちの面倒を至れり尽くせり見てもらい、私たちは何もしないでもメンテナンスされる、というわけではないのです。当時も、パウロが一つの教会に張りついていたわけではなく、このような手紙で教えていました。私たちは互いに聖書に学ぶことで、私たち自身を管理し、成長させることになるのです。

共に与る努め 3.6-7

『異邦人も共同の相続人になり』とはユダヤ人か異邦人か関係なく、イエス様の福音に与った人たちみんなを言います。『ともに』が2回あります。1つめは『ともにからだに連なって』。『同じからだ』とはイエス様です。これまで『キリストにあって』という言葉が何度も出てきましたが同じことです。イエス様の福音に与った者はみな、イエス様の中にあり、イエス様と同じ復活のからだに与ります。二つめは『約束にあずかる者になる』です。これまで『天上にあるすべての霊的祝福』『恵みの栄光』『御国』『次に来る世』と表現されていたものが『約束』です。私たちはイエス様と同じ復活のからだと相続に共に与ります。ですからユダヤ人と異邦人の共同相続人にとどまらず、イエス様との共同相続人なのです。パウロは自分だけではなく、私たちみんなとこの相続に与れるよう、聖書を私たちに託しました。聖書を託された私たちもまた、奥義を人々に分かち合っていくのです。

私たちも小さなパウロです。パウロは自分を『福音に仕える者』と証ししました。「福音を給仕する者」という言葉です。私たちも、聖書の奥義をあの人この人に、工夫しながら振る舞うのです。それが、パウロから引き継いだ、新しい共同体ならではの「神の恵みの努め」なのです。

11月21日(日)の礼拝は、マルコの福音書8.1-10から、「忍耐深い主の訓練」と題してメッセージです。


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