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光の子の生活

イエス様の初臨と再臨に思いを巡らす待降節。私たちは再臨まで、世の中の状況と自分の立ち位置をわきまえ、信仰と希望と愛という武具を用い、『互いに励まし合い、互いに高め』合う生活を続けていきます。それがどのようなものか、パウロは筆を進めます。12月5日(日)の待降節第二週礼拝は、テサロニケ人への手紙第一5.12-18から、「光の子の生活」と題してメッセージです。

指導者を重んじる生活 5.12-13

テサロニケ教会は3週間ほどの宣教で誕生しました。そしてすぐに迫害にあいました。パウロは彼らを励ますため、この手紙を書きました。ここを読むと早くもリーダーが生まれていたことがわかります。状況を考えれば誰かがならざるを得なかったとも言えます。彼らは『苦労し』『指導し』『訓戒し』ました。細かく言うと「骨折って、一生懸命守り、援助し、勧め、時に戒め、教え諭す」です。しかも手前勝手にしているのではありません。『主にあって』です。常に主の心を求めながら。しかしみんな生まれたてでリーダーもお互いもそう違わない。じゃあ従わない?「何を偉そうに!」と思う?それではそこに平和はありません。はや分解状態です。逆にリスペクトする。互いに励まし合う。そうすることでリーダーもお互いも育つのではないでしょうか。外側からどんな揺さぶりがあっても、内側はしっかり結びつくのではないでしょうか。

互いに励まし合う生活 5.14-15

教会はリーダーにおんぶに抱っこではありません。リーダーと共に『キリストにあって』『愛をもって』『お互いに』励まし合います。『怠惰な者』は「部署を放棄した兵士」、『小心な者』は「臆病な者」「無気力な者」、『励まし』は「元気づける」、『世話をし』は「寄り添い」、『寛容であり』は「忍耐強く」とも訳せます。テサロニケ教会は生まれたて。迫害のまっただ中。最前線の新兵集団のようなもの。呆然となる者、自暴自棄になる者、逃亡者が出てもおかしくない。でも彼らは違った。パウロの勧めは全て現在進行形。彼らは『現に行っている通り』、すでに統率を取りながら、忍耐強く励まし合っていたのです。『善を行うよう努めなさい』は「善をもって追いかけなさい」とも訳せます。お互いにだけではなく、迫害する者にも勇猛果敢に善を行い続ける。善攻撃!内側に平和を保つだけではなく、外側にも平和を広げていくのです。

どんな状況でも分かち合う生活 5.16-18

有名な聖句。教会学校で暗誦する御言葉ランキングの上位に入るのではないでしょうか。覚えやすい。でも、言葉通りに実行するのが難しい御言葉ランキングの上位にも入るのではないでしょうか。自力で実行できるものではありません。『キリスト・イエスにあって』可能なのです。さらにイエス様の中にある、私たち「みんな」だから可能なのです。みんなで手分けし協力し、喜びを分かち合い、祈りをつなぎ、感謝をあらわすのです。あるテレビドラマで、「私たちは木さえあれば生きられる」という言葉を聞きました。植物は私たちの燃料、食料、家、服、道具になり、保水や浄水もし、土地や海を肥やし、酸素を供給します。どんな状況でも光を浴びて、生え出し茂り広がろうとします。私たちを生かすためひたすらです。教会もそれに似ている。植物の創造者、教会の創造者、キリストがそういうお方。イエス様こそ、どんなに踏みにじられ、酷い扱いを受けても、私たちを罪から救い出し、永遠に生きてほしいと望み、喜び祈り感謝しつつ仕え、十字架にのぞまれた(一粒の麦となられた)。そのキリスト・イエスを内に宿す私たち。どんな状況でも左右されない喜びと祈りと感謝がわき上がる!それをいろんな形で分かち合い、広げていけるのです。

「雑草のように」という言葉があります。「いろんな種類」「たくましい」といった意味があるかと思います。教会もいろんな人があります。リーダーも「この人でないとダメ」ということはありません。代わる代わるやればいい。教会はもっとたくましくなる。そして植物が人の必要のためにあらゆるものに形を変えるように、私たちが隣人にできることもいろいろあるはずです。苦しい状況や辛い状況にある人々が、同じ中で『いつも喜び』『絶えず祈り』『すべてのことにおいて感謝し』つつ生きる私たちの内に、イエス様という希望の光を見るのではないでしょうか。

12月12日(日)の待降節第三週礼拝は、ヨハネの福音書1.1-13から、「光の子の光」と題してメッセージです。


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