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光の子の光

私の子ども時代は昭和の高度成長期。山の造成地でよく遊びました。そこに大きな土管が壁面から突き出ていて、友達数人で探検に入りました。だんだん闇の中。奥の方で何か物音がしたら「ぎゃー!」とみんな叫んで外へ飛び出しました。あちこちぶつけて痛い思いをしましたが、太陽を見上げて、その光の温かさに心底ホッとしたものです。今年の待降節は「私たちは光の子」「光の子の生活」ときて、12月12日(日)の待降節第三週礼拝はヨハネの福音書1.1-13から、「光の子の光」と題してメッセージです。

まことの光 1.1-4.

ヨハネの福音書は他の福音書と違い、書き出しが抽象的。でも福音書。イエス様のことが記されている。特にイエス様になる前のキリストが描かれている。『初めに』は「支配」という言葉。そしてキリストは『ことば』。キリストは、神と共にあり、神ご自身でもあり、この世界を造られました。キリストに『いのち』があり、『いのち』は『光』でした。「いのち輝く」なんて表現しますよね。天地創造の時の第一声が『光、あれ』。そして次々と言葉が発せられ、命あふれる地球となり、最後に私たちが『神のかたち』として創造されました。神そのものではないけれど神を映し出す存在。私たちも言葉によって様々なものを生み出し、命を吹き込んでいます。何を言いたいのかというと、私たちの全てはキリストに由来するということです。そして本当の支配権はキリストにあるということです。私たちはこのキリストに似せて造られた者。だから私たちにはキリストが必要不可欠。光の子には『まことの光』が必要不可欠だということなのです。

まことの光を受け入れる 1.9-13.

『すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた』『この方はもとから世におられ』『この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった』。いなかったのか?既にいたのか?来ようとしているのか?もう来ているのか?ややこしい!キリストは世界の始まる前からおられました。でも人間には見えない触れない。だから信じない人がいる。そこで見えて触れられるイエス様となった。すると今度は「神がこんな人間であるはずがない」と信じない。「万能感」という言葉があります。確かに私たちは様々なものを生み出してきました。良くも悪くも。悪い面を「闇」と表現したりします。しかしそれは『まことの光』を受け入れないからではないか?『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった』。『子ども』は性質や精神を受けつぐ者をいう言葉。『特権』は支配をいう言葉。傍若無人に振る舞うことが私たちの自由でも支配でもありません。『まことの光』を受け入れてはじめて「光の子」として振る舞えるのです。

まことの光を証しする 1.6-8.

ここにバプテスマのヨハネが登場します。イエス様の親戚で、イエス様より少し先に生まれ、イエス様の働きの道ぞなえをした人。でも「バプテスマの」は出てきません。ここで強調したいのは『光を証しするために』きた人だということです。当時、人々はこのヨハネをキリストではないかと思いましたが、『彼は光ではなかった』とあるように彼も否定しました。私たちも「私たちは光の子」と言ってもキリストそのものではありません。でも『まことの光』を受け入れるなら「光の子」として輝くのです。イエス様の人間的な親戚になる以上に、イエス様と同じ「神の子」という扱いをいただけるのです。それが『この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである』ということです。先の『証しする』は、「経験者として証言する」という言葉です。だから。私たちは誰でも、ヨハネ以上に、もっとリアルに、光を証しすることができるのです。

『光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった』。世の中にはたくさんの「大変」があります。一見、闇が圧倒的に思えます。でも光は闇のただ中に輝く!闇が「ある」わけではない。光こそ「ある」!「ない」ものは「ある」ものに勝てない。私たちは、この光に照らして、いろんな「大変」にコツコツ向き合っていくのです。「大変」は「大きく変われる」チャンス。光の子としてのリアルな証し(生活)が、そこに生まれてくるのです。

12月19日(日)はクリスマス礼拝。マタイの福音書2.1-15.とヨハネの福音書1.4-5.から、「闇に打ち勝つ光」と題してメッセージです。


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