カテゴリー

たゆまぬ希望

主の年2022年が明けました。日々癒され、力づけられ、導かれ感謝。主の再臨がさらに近づき感謝です。年のはじめに、神様がどれほど私たちを祝福し、将来に希望を与えたいと願っておられるか、心に留めましょう。元旦礼拝は、エレミヤ書29.10-11から、「たゆまぬ希望」と題してメッセージです。

とにかく背き続けるイスラエル 29.10

イスラエルはソロモン王の時代に一大国家となりますが、次の代で早くも北と南に分裂。北の王は神様に背き続け、一足先にアッシリアによって滅亡。南の王は神様に従ったり従わなかったり。だんだん短期政権になり、バビロンの傀儡政権になり、捕囚が始まり、ついに滅亡。そんな頃のお話し。預言者エレミヤは叫びます。「あなたがたはバビロンに抵抗したり、エジプトに助けを求めたりするなら滅びる。バビロンへ行って、家を建て、畑を耕し、子どもを産み育てなさい」。しかし民は逆らいます。「私たちには神の守りがずっとあった。危機の時には必ず奇跡が起こり、救われ、勝利してきた。今回もそうだ」。しかし彼らの言う「神」とは主なる神様ではありません。彼らは神殿にいろんな偶像を持ち込んでいた。その偶像を「神」と呼んでいるのです。そして彼らは、バビロンに抵抗し、エジプトに助けを求め、殺されていきました。イスラエルにずっと寄り添っていたのは主なる神様です。でも彼らは「いろんな偶像が守ってくれた。我々はその偶像にずっと従ってきた」と言ってはばからない。歴史の改ざんもいいところ。繰り返す痛い歴史に何も学んでいない。自分たちを正当化するばかり。預言者の言葉に耳を貸さず、預言者さえも殺し続け、とにかくずーっと反抗するばかりでした。

粘り強く希望を示し続ける神様 29.11

神様って逆説的なお方。そしてユニーク。捕囚となると、負けを認めるようなもの。私たちの国も「虜囚の辱めを受けるくらいなら自ら命を絶つ」なんてことがかつて言われました。しかし神様はそのような目先のプライドにこだわってはおられません。神様はたゆむことなく、彼らの「今の救い」と「将来の祝福」を思っておられました。彼らがどんなに失礼極まりない態度で逆らおうとです。神様にとって大国アッシリアやバビロンはイスラエルを救う道具。滅亡直前の北イスラエルも南ユダも、その内情は生き地獄でした。もはやその生き地獄から、自分自身では脱出できなかったのです。だから神様は、生き地獄から救い出すために、大国を動かし、預言者を何度も遣わし、1人1人がどうすれば良いのか、粘り強く丁寧に語り続けられたのです。実際、神様の言葉に従った人たちは生きることができました。バビロンで普通に生活ができ、次世代が育ち、エレミヤの預言通り、70年後ユダヤの地に帰還できました。そして、およそ500年後のイエス様到来につながっていくのです。

今の時代の私たちはどうでしょう。大国やワンマンリーダーに翻弄され、歴史も現実も簡単に書き換えられ、デマや陰謀論があふれていないでしょうか。そういったことに追随しない人や異を唱える人を完膚なきまでに排斥していないでしょうか。私たちは聖書に繰り返し記される、痛い歴史と救いの歴史をしっかり読み、学び、記憶するべきです。神様は私たちにも今の救いと将来の祝福を、聖書を通して語りかけておられます。神様は逆説的なお方。御子イエス様の十字架と復活がまさにそう。私たちはその逆説的で圧倒的な救いを信じている。「なんでこんなことになるんだ!」と理解できなくても、「そんなのムリ!」と尻込みしたくなっても、「私のやり方は正しい!」と肩を怒らせたくなっても、神様の言葉に聞いて、力を抜いて、やってみる。たゆみなく。スーッと扉が開いたり、別の道を進めたり、「なるほどそうだったのか!」とわかったりする。そんな経験を、今年も積み重ねたいと願っています。

1月2日(日)は新年礼拝。ローマ人への手紙5.1-5から、「鍛え上げられた希望」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved