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鍛え上げられた希望

昨年の待降節からずっと希望(光)について耳を傾けています。私たちはつい目の前の悪い出来事に目を奪われ、将来の悪い出来事に不安になりがちです。しかし私たちはしっかりと希望を見据え、自分にできる主の務めを日々喜び楽しみ、主の救いと恵みを分かち合うことが大切です。その希望が鍛え上げられるとパウロは語ります。1月2日(日)の新年礼拝は、ローマ人への手紙5.1-5から、「鍛え上げられた希望」と題してメッセージです。

今立っているこの恵み 5.1-2前半

今立っている恵みとは、イエス様を私の救い主と信頼することで、神様の前に義とされているということです。言い換えると神様との関係が平和であるということです。いつも神様の前にくつろぎ、親しく語り合え、共に歩むことができるということです。私が小学生の時、M君の家に初めて遊びに行きました。するとM君のお母さんは喜んで私を迎え入れ、お菓子を出し、楽しくお話しくださいました。私も最初からリラックスして楽しく過ごせました。でもそれはなぜ?私がM君を信頼してついていったから。お母さんもM君の友人だからと、私と初対面にもかかわらず、信頼して家に迎え入れてくれたからです。私たちは御子イエス様を信頼したゆえに、神の家族に迎え入れられている。それが今立っている恵み。それまで私がどんな人間だったかは問われていない。信頼から全ては始まる。恵みの上に立つことから始まるのです。

今注がれる神の愛 5.2後半,5

2節の『望み』と5節の『希望』は同じ言葉です。昨日、旧約聖書のエレミヤ書から希望について語りましたが、ヘブル語の「希望」は「きずな」という意味もあります。イエス様とのきずな、神の家族としてのきずな。それは決して失望に終わらない。ではどんな希望なのか?それが2節の『神の栄光にあずかる』ことです。神の家族に迎え入れられた私たち。もはやよその子じゃありません。父なる神様・御子イエス様・聖霊様との交わりの中で『神の愛』が注がれる。そんな愛を感じない?自分はそんな愛情豊かじゃない?肝心なのは交わり。きずなを深めること。迎え入れられたときは、立場が神の子になっただけ。でも、今ある恵みに立ち続け、その交わりにとどまり続けるなら、神の子らしく成長し、神の栄光に向かって行くのです。

今ある苦難から現れる希望 5.3-4

ここを読むと、「苦難をそう簡単には喜べない」と抵抗を感じます。しかし苦難こそ自分を成長させ、大きく変えたと思うことはないでしょうか。『苦難』は「困難」「苦しみ」「迫害」という言葉。『忍耐』は「自分の持ち場立場に硬く踏みとどまること」という言葉。『練られた品性』は「試験済み」「実証済み」という言葉。いろんな厳しいテストをクリアして「お墨付き」をいただいた最高の製品のようなイメージが浮かんできます。私は岡山県に住んでいましたが、長船町という日本刀の名所がありました。日本刀はもとは砂鉄。火に通し、打ちたたき、水に通し、また熱しということを繰り返し、鉄の純度を上げ、粘りと強さを併せ持つ、美しい刀に仕上がります。同じ鉄でも全く姿形が変わる。鍛え上げられることなくして生み出されない輝きを放つようになります。私たちもそうです。今やクリスチャンであろうとなかろうと誰もが苦難に遭遇します。その状況は加速度的に悪化しています。でも神様は、そんな状況さえ用いて、私たちをさらに良い者に造り変え、さらに良いものを受けとるに相応しい者にしようとしておられる。日本刀は砂鉄から勝手にできあがるのではありません。刀鍛冶がずっと寄り添い向き合い仕上げるのです。神様もそう。私たちにトコトン向き合い寄り添い仕上げてくださるのです。

イエス様こそ鍛え上げられた希望の実体。十字架の苦難を通して栄光の座に着かれました。このイエス様が私たちの目標。私たちは苦難の中でも、このイエス様に信頼し、神の家族の恵みに立ち、神の愛を分かち合い続けるのです。そうすれば、イエス様が再びこの世界に来てくださり、私たちを新しい世界へ救い出し、勝利者として同じ栄光に輝かせてくださいます。私たちの希望は、私たちの実体となるのです。

1月9日(日)は青年祝福礼拝。使徒の働き2.17-21から、「今こそビジョンを」と題してメッセージです。


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