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今こそビジョンを

ビジョンとは「見る」「見通す」という意味ですが、「将来」「未来像」「構想」といった意味で用いることが多いのではないでしょうか。遠い未来でなくても、新年を迎え「今年こそは」と思いを馳せることもあるでしょう。私たちは節目節目に、意識するしないに関わらず、大なり小なりビジョンを思い描いていることがあります。でも結局、毎日生活に追われるばかり?マンネリで退屈?私たちにはビジョンが必要。自分が思い描くビジョンも大切。さらに主から与えられるビジョンが大切。1月9日(日)は青年祝福礼拝。使徒の働き2.17-21から、「今こそビジョンを」と題してメッセージです。

『わたしの霊』が注がれて 2.17前半

イエス様は十字架で死なれ、3日後によみがえり、しばらく地上におられた時、弟子たちに『聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして…わたしの証人となります』と言われます。そして天に帰られます。弟子たちは家に閉じこもり、祈りながらその時を待ちました。10日後聖霊様が降られました。弟子たちは扉を開け放し、外へ飛び出し大胆に語り始めました。その時のペテロの言葉が今日の聖書箇所。そして旧約聖書の預言、マラキ書の一節だったのです。主から与えられるビジョンとは、私たちの「あれがしたい」「これがしたい」というビジョン以上に、『わたしの霊』という聖霊様が与えてくださるビジョンです。かつ聖霊様はそのビジョンを分かち合うために『力』も与えてくださるのです。

様々な形や方法で与えられる 2.17後半-18

『わたしの霊』である聖霊様は、息子・娘・青年・老人・しもべ・はしために注がれます。立派な祭司や律法学者、ペテロやヨハネといったイエス様の直弟子たちだけに注がれるのではありません。老若男女に関係なく、身分や職業に関係なく注がれるのです。そして預言し、幻を見、夢を見るのです。様々な形や方法で主のビジョンは与えられます。とはいえ、主のビジョンは一つです。大きな一つ。豊かな一つ。ですから1人で主のビジョンを網羅することはできません。だからそれぞれに様々な形や方法で分け与えられる。でもバラバラじゃない。一致や調和がある。自分のビジョンと他の人のビジョンが違うように見えても、お互いを拒絶したり善し悪しを言うのではなく、広く大きな視点で見渡す必要があるのです。

『輝かしい日』を迎えるために 2.19-21

待降節には終末と再臨について聖書から聞いていますが、今回の箇所もそれに触れています。世界の終わりには戦争や飢饉、疫病や地震、天変地異が起こる。「青年よ大志を抱け」「若い世代に明るい希望を」と言ってもお先真っ暗か?いえ。歴史は繰り返すと言われますが、聖書が記す歴史も「らせん」を描くように進みます。戦争や飢饉、疫病や地震、天変地異も今に始まったことではなく、いつの時代にもありました。そんな中で青年は大志を抱き、若い世代は希望を失いませんでした。では私たちにとっての希望や大志は何か?進んでいく歴史の先に何があるのか?『主の名を呼び求める者』が起こされ、神の家族が増え、神の国が広がり、その主であるイエス様が再臨される『輝かしい日』を喜んで迎えることです。そして新しい天と地に共に移され、栄光の生涯に入ることです。これが私たちの大ビジョン。目の前の状況がどうであれ、この世界や歴史を突き抜けるワクワクする大ビジョンがあるのです。

私はかつて障害者福祉に従事していましたが、利用者の数年先をまずは思い描き、そこから年毎、月毎、日毎のプランを立て、職員で共有しました。個性や賜物が豊かな職員集団でしたが、接し方は違っても、方向性はブレることがありませんでした。教会の歩みもこれに似ているかもしれません。私たちの大ビジョンは『輝かしい日』を迎えること。中ビジョンは『主の名を呼び求める者』が起こされること。そして小ビジョンは、そのために私たちに何ができるかです。新しいことを思いつけば感謝ですが、思いつかなくても大丈夫。今あるあなたの学び・資格・技能・仕事・人脈・家庭、あなたの住む地域など、一番身近から見直し、丁寧に向き合っていく。目の前のことだけなら振りまわされ、我を見失うこともあるかもしれない。でも大ビジョンを目標に据え、中ビジョンを目的に、日々の歩みを考えるなら、自分を見失うことなく、ブレずに進むことができるのではないでしょうか。

自分のするべきことは何か?目の前から先へ向かって考えるだけではなく、主の再臨という『輝かしい日』から目の前のことへ向かって考えてみてはいかがでしょうか。

1月16日(日)はホーア師&八重師記念礼拝。マルコの福音書8.22-30から、「イエス様がハッキリ見えるように」と題してメッセージです。


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