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五千人分のお弁当

第5週の日曜日は「祈り」「賛美」、そして「献げる」というテーマでお話ししてきました。1月30日(日)の礼拝は、ヨハネの福音書6.1-15から、「五千人分のお弁当」と題してメッセージです。有名な聖書箇所でもあります。5千人とは、そこにいた男性の数。当時の数え方。そこには女性も子どももいたはずです。ですから1万人前後いたかもしれません。1万人分のお弁当と言えるかもしれません。ここから、献げる恵みを学びましょう。

金額ではなかった 6.5-7

ヨハネの福音書は12弟子のヨハネが記録したと言われます。登場する弟子たちの名前がハッキリ記されていて、他の福音書よりも描写が細かめです。イエス様はお腹をすかせた大勢の人々を目の前に、どうしたらいいか、弟子のピリポに相談されます。ピリポはイエス様ご一行の会計係をしていたようです。ピリポは目の前の人々と手持ちのお金を照らし合わせ必死で計算しました。出てきた答えは「2百デナリでも、みんなちょっとしか食べられない」でした。2百デナリは大人一人の日当2百日分です。大人のピリポ。そしてとても賢かった。でも勘定はできても「ムリです」という答えしか出せなかった。そして彼は何もできませんでした。

分量でもなかった 6.8-9

次に12弟子のアンデレ登場です。ピリポと同じベツサイダ出身。ペテロの弟。アンデレにはイエス様のもとに人を連れてくる才能がありました。かつて、イエス様のもとに兄ペテロを連れてきたのはアンデレでした。そのアンデレが、この時もイエス様のもとへ人を連れてきました。大麦のパン5つと2匹の魚をもった子ども。どれほどのボリュームだったかはわかりませんが、お弁当を持っていたのはこの子だけ。アンデレは言います。『それが何になるでしょう』。大人のアンデレ。彼も才能を発揮しました。弁当を持つ子どもを見つけ出しイエス様のもとへ連れてきた!一歩前進に見えた。なのに。彼の口から出てきたのは「やっぱりムリ」。そして彼も何もできませんでした。

献げたかどうかだった 6.10-13

大人は自らの才能をフル回転させて「ムリです」という答えを出して、何もできませんでした。でも子どもは違った。子どもはとにかくイエス様にお弁当を渡したのです。全部。子どもは「あ~あ、ボクの弁当なくなっちゃった」とか「イエス様に献げればみんな満腹になる」とか考えたでしょうか?イエス様はすかさず弟子たちに指示を出し行動開始。感謝の祈りを献げ、パンと魚を人々が望むだけ分け与えられました。子どもはイエス様にお弁当を献げたらどうなるか?なんて想像できなかったと思います。でもとにかく献げた。大人たちは弟子も含めみんなイエス様に何も期待していなかったし、何も求めなかったし、何も献げなかった。「ダメです、ムリです、お腹が減った」というのが関の山。でも子どもは、自分にあるものをイエス様にとにかく献げた。すると子どももみんなも満腹になった。子どもがガッカリすることは決してなかったのです。

ヨハネは、大人と子どもを対照的に描いているように思えます。大人が悪いわけではありません。能力があった。でも自分だけでダメだと結論を出していた。イエス様に向かない、聞かない、つながらないのです。子どもはとにかくイエス様に献げた。するとイエス様が用いてくださったのです。自分にその時あるものを、イエス様に献げたか、つなげたかが決定的な違いだったのです。みなさんにも能力、才能、賜物があります。ないとは言わせません。あなたそのものが賜物の塊です。あなたをイエス様に献げる、つなげるのです。イエス様は私たちのためにご自身を献げられました。私たちも献げる。隣人の救いや祝福のために、励ましや喜びのために。イエス様は、子どものお弁当でさえ5千倍以上に用いられました。あなたという尊い存在を、イエス様はもっともっと用いてくださいます。

2月6日(日)の礼拝は、詩篇38.1-22から、「幸い。罪を自覚し告白する」と題してメッセージです。


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