幸い。主が旅の伴侶

私は登山やハイキングが好きです。1人で歩くのも好きですが、友人と歩くのも好きです。どんなに道険しくとも、ずっと語り合い、とても楽しい。大自然への感動、珍しい植物発見の喜び、弁当の美味しさも何倍にもなります。ダビデは人生は旅で、その旅の伴侶は主だ、とうたいます。2月20日(日)の礼拝は、詩篇39.1-13から、「幸い。主が旅の伴侶」と題してメッセージです。
口は災いの元か? 39.1-3
登山やハイキングでずっと語り合っていると言いましたが、ダビデは「口は災いの元だからしゃべらない!」と言っているようにも思えます。しかしそれは『悪しき者が私の前にいる間は』ということです。ダビデの若い頃から王になるまで、いや王になってからも、反対勢力がいつも聞き耳を立てていました。「下手なことは言えない」状況でした。でも「過ぎたるは及ばざるがごとし」。度が過ぎるとそれはそれで問題が生じる。ダビデは悶々としだすのです。人間はコミュニケーションなしには生きられない存在です。
主に口を開くことから 39.3-6
ダビデは沈黙を破ります。最初に口を開いたのは主に向かってでした。沈黙は悪いものでも、思考停止でもありません。「沈黙は金」とも言われます。5節と11節の終わりに『セラ』とあります。賛美の休止符のようなもの。立ち止まり、静まり、思い巡らす。その中で見えてきたこと、主に問わずにはいられないことが出てきました。それが「空しさ」でした。5節11節のセラは、ともに『空しい』という言葉の後にあります。「空っぽ」「つまらない」「あっという間に過ぎ去る」という言葉。ダビデに敵対する人々は能力が高く、力もあり、富み栄える血気盛んな人たちでした。蓄財にも余念がありません。今の世界にも通じるものがないか?しかし歴史は、そういう人々があっという間に消え去ったことを物語ります。貯めに貯めた財産も、結局自分のものにはなりません。ダビデは、自分も含め、そんな強烈な空しさを感じました。
主こそ望みと告白し 39.7-11
ここにも『みな空しい』とあります。「諸行無常」という言葉があります。聖書も『空の空。すべては空』と語ります。しかし聖書は『空』で終わらせません。『主よ 今私は何を待ち望みましょう。私の望み それはあなたです』。私たちは「身の程」や「身の丈」をわきまえられないと、失言や大言壮語したり、使い切れないものを貯め込んだりしてしまう。自分をわきまえるためには主が必要。主が私の創造者だから。ダビデは主が自分を打たれ、責められ、懲らしめられると記します。主が厳しいのか?そうじゃない。私たちはすでに、自ら蒔いたもので痛い思いをし、他人に迷惑をかけ、滅びの淵に立ち、泡のように消え去ろうとしているのです。『懲らしめ』は「訓練する」という言葉。主は私の身についた余計な力や欲望を、『シミが食うように』取り除き、元々の私を回復させ、私らしく歩けるよう訓練してくださるのです。
主と共に旅を進める 39.12-13
1節『自分の道に気をつけよう』、6節『人は幻のように歩き回り』『空しく騒ぎ立ち』、7節『私の望み それはあなたです』、12節『私はあなたとともにいる旅人』とあります。私たちにとって主が創造者であり、旅の伴侶であり、旅の目標(望み)です。ですから主とのコミュニケーションを楽しむ。ならば道に迷うことも、無駄なエネルギーを使うこともなくエコです。しかし主を見失うなら道に迷い、エネルギーを浪費し、空っぽになり、幻のように消えてしまう。主は私を造ってあとは放ったらかしでも、先の方で何もせず眺めておられるわけでもありません。常に寄り添っておられます。私が主に向いて、口を開けば、即座にコミュニケーションは始まるのです。
登山やハイキングに友人がいるなら、楽しくてあっという間に時が過ぎます。空しいからではなく、充実しているからこそ。しかもそれは決して失われない。朽ちる富に勝る宝となる。絆は深くなり、なおも続く。私たちの人生の伴侶は主。主との絆を深めるのです。主と共にあるかないかで、あっという間の人生の意味もガラリと変わる。そして幻のように消え去るのではなく、永遠の新しい天と地に共に立つに至るのです。あなたが『去っていなくなる前』に、永遠の人生を主と共に、確かなものとしていただきたいと思います。
2月27日(日)の礼拝は、詩篇40.1-17から、「幸い。みこころを行う」と題してメッセージです。