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栄光をのぞむ窓

窓は光や新鮮な空気を入れ、外の景色を見せ、音を聞かせてくれます。外と中をつなげてくれる窓。では教会に窓はあるでしょうか。会堂ではなく、私たちの交わりが教会。私たちは神の家族であり神の家。神の家にも窓がある。どんな窓でしょうか。3月6日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙3.8-13から、「栄光をのぞむ窓」と題してメッセージです。

パウロという窓 3.8-9

12使徒は教会にとって大きな存在でした。かたやパウロは世代が若く、元々教会を迫害する輩で、昇天されたイエス様に出会って使徒として召されました。そんな自分を『すべての聖徒たちのうちで最も小さな私』と表現します。めちゃめちゃ小さいパウロ。しかしこのパウロに『この恵み』と呼ぶ「教会を管理する努め」が与えられました。その内容が『キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするため』でした。メッチャ小さなパウロが、メッチャ大きな主の富と奥義をユダヤ人だけでなく、異邦人にもハッキリ見せる窓となりました。

お互いを見せる窓 3.10-11

窓は中を見ることもできます。私たち教会はパウロを通して、『天上にある』メッチャ大きな主の富と奥義が見えるようになりましたが、天上からも教会の営みが見えるようになりました。パウロはそれを『神のきわめて豊かな知恵』と表現します。『豊かな』は「多種多様な」という言葉。すでに皆さんは多種多様な知恵を持っている。その多種多様な知恵が「交わり」を通して働くとき、『神のきわめて豊かな知恵』となって現れます。イエス様は地上においてみことばとみわざを振るまい、十字架による救いを成し遂げられました。主こそ『神のきわめて豊かな知恵』の現れ。何を言いたいのかというと、主のわざは地上において具体的になされる、ということです。後を引き継ぐ教会も、多種多様な営みを振るまうのです。天の父なる神様は主の地上での活躍を喜んで見ておられましたが、教会の活躍も喜んで見ておられるのです。

栄光に共に与る窓 3.12-13

『私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます』。天上と地上では物理的に距離が離れているように思えますが、主の側に隔たりはありません。遠く離れていた距離が段々近づくのではなく、既に一緒にいるからこそ、ますますハッキリわかり、似た者になり、一つになる、ということです。とはいえ、パウロとエペソ教会は、この時遠く離れていた。パウロはローマで軟禁生活。エペソ教会はそれを知って『落胆』していたようです。彼らは『苦難』の意味が理解できず、その先が見えていませんでした。そこでパウロはこの手紙を書いた。『ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです』。

パウロが異邦人伝道を進めるとユダヤ人の迫害が激しくなり、パウロは訴えられます。パウロはそれを逆手にとって皇帝に上訴。すると護衛つきで安全にローマへ行けるようになり、皇帝に直接福音を語るチャンスも生まれました。自分が借りた家での生活は、面会も自由にできたし、この手紙も書けた。パウロに降りかかったピンチは、今日に至る宣教のビッグチャンスになった。パウロという窓は決して閉じられなかった。これぞ神のきわめて豊かな知恵!苦難を通してイエス様は栄光の実体となられました。苦難を通してパウロは、その『測り知れない富を福音として』著してくれました。そして私たち教会を通して、外も中もついには一つになって、その栄光に与るに至るのです。

苦難はいやですか?今や地上は苦難に満ちています。たとえどんな中にあっても、私たちも栄光をのぞむ(見せる)窓でありたい。そんなのできない?いえ。神様は『最も小さな私』たちを通して、不屈の大きな富と奥義を人々に見せ、振るまってくださいます。

3月13日(日)の礼拝は、エペソ3.14-21から、「実践への祈り」と題してメッセージです。


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