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私の中心にあるもの

2022年5月1日(日)

ピリピ人への手紙は、差出人、宛先、挨拶から始まります。このとても短い3つの部分すべてに、「キリスト・イエス」とか「主イエス・キリスト」という言葉が入っています。5月1日(日)の礼拝はピリピ人への手紙1.1-2から「私の中心にあるもの」と題してメッセージです。

キリスト・イエスのしもべから

 この手紙を書いたパウロとこの手紙を受け取ったピリピ教会との出会いは使徒の働き16章に出てきます。パウロはテモテを連れてマケドニアの主要都市ピリピに向かい、婦人や看守の家族からピリピ教会が始まります。ピリピ教会にとってパウロは自分たちに初めに福音を伝えてくれた人。大先生。ですがパウロは自分を「キリスト・イエスのしもべ」と書きました。しもべとは奴隷です。

人は何かしらに支配されていると言われています。人の言葉や過去の出来事、感情やこうあるべきといった価値観などです。しかしパウロとテモテを支配していたのは、自分の計画や人の言葉ではなくイエス・キリストでした。自分を条件つけずに愛してくださる主人をもっていました。

キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち…へ

 キリスト・イエスに愛されている、それをパウロはピリピ教会にもあてはめました。ピリピ教会が完全な教会であったからではありません。ここにもややこしい人がいて問題もありました。

「聖徒」とは聖人のことではありません。イエス様のものと区別された人を意味しています。パウロはピリピ教会をイエス様のために取り分けられた教会として見ていました。私たちは教会に対して、あの人に対して批判をすることがありますが、パウロはすでにイエス様のために取り分けられた教会、人として見ることができました。パウロはイエス様を通してピリピ教会を見ていました。

父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安がありますように

 恵みとは救い、救われたから平安があります。そしてこの恵みと平安を与えることができるのは神とイエス様だけです。

パウロの中心にはいつもイエス・キリストがありました。自分は何者か?教会やあの人の見方は?恵みと平安の源は?私たちの中心もイエス様となっているでしょうか?

5月8日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:3-11から「私はこう祈っています」と題してメッセージです。


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