カテゴリー

世の光として輝くため

2022年7月10日(日)

先週夜空を見上げた方はいらっしゃるでしょうか。夜空に星々が輝くように、聖書は私たちを世の光、星のように輝く存在だと教えます。それでは私たちがどう生きていることが世の光として輝くことになるのでしょうか。7月10日(日)の礼拝はピリピ人への手紙2.12-18から「世の光として輝くため」と題してメッセージです。

自分の救いを達成するように努めなさい

 自分の救いを達成する…これは忠実な教会生活や奉仕によって救いを得よということではありません。これは私たちが成長していくこと、イエス様に似せられていくことを表しています。それも「恐れおののいて」。自分は大丈夫、だいぶ似ているというのでもなく、こんな私が似るなんて神様でも無理というのでもなく、神様が私を似せてくださると信じて従っていくことです。そしてこの願いも力も神様が与えてくださっているのです。パウロはこのことを信じて、神様にも人にもつぶやかず疑わず行いなさいと勧めます。

それは世の光として輝くため

 当時ピリピの教会は一つとなっていませんでした。それは「世」と同じです。世の光となるということは、あの人が悪い、これが悪いと責任転嫁して自分の分を負わず、分断分裂していく「世」にあって、イエス様に似せられていくことで一つとなることでした。イエス様はご自分のあり方を捨てられないとは考えずご自分を低くしました。しかし、もし私たちが自分を捨てられず固執し、自分は高く上げ、人を低くしているようであれば、教会は一つになれないとパウロは教えます。

教会が世の光となることが喜び

 パウロは教会が世の光となること、一つとなっていることを喜びました。たとえ自分が死ぬことがあったとしても、指導者がいなくなって、何か問題が起こったとしても、それでも教会が一つとなっているのなら喜びですと。教会はイエス様に似て一つとなっているかどうかなのです。一つとなる、それは事なかれ主義で表面の付き合いをすることでもありません。ありのまま受け止めることです。またお互いの祈りを共有することも一つとなることではないでしょうか。兄弟姉妹の祈りを知っている、祈っている私たちでありたいと思います。

7月17日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙2.19-24から「イエス・キリストを求める心」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved