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イエス・キリストを求める心

2022年7月10日(日)

神様は、私たちがただ、ここに一緒にいるけど顔と名前しか知らない間柄ではなく、互いに愛し合い、信仰の友、祈りの友となるように導かれました。今日の聖書に出てくるパウロにも信仰の友がいました。それがテモテとエパフロディトです。今日はテモテに焦点をあてます。7月17日(日)の礼拝はピリピ人への手紙2.19-24から「イエス・キリストを求める心」と題してメッセージです。

適任者テモテ

 パウロはテモテを適任だと評価しました。これは別の聖書で「確かな人物」と訳されている言葉です。前節には「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません」とあります。ということは、自分自身を求めず、イエス・キリストのことを求めている人を確かな人物と言っているのです。イエス・キリストのことを求めると言われて思い浮かぶのは熱血で伝道、奉仕、祈りする姿?しかしパウロはそうではなく、「私(パウロ)と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している」人のことを「イエス・キリストのことを求めている」と呼ぶのです。

私と同じ心になって

 ではパウロの心と言えば何なのかというと、それは「愛」でした。パウロはこの手紙の中で祈りや願いを書き記していますが、そこには愛という言葉が入っていました。自分がいない今、教会に何人増えたとか何の活動をしているかではなく、愛し合っているか、同じ思いをもっているか、ということをパウロは何よりも大事なこととして見、祈ってきました。そしてテモテもパウロと同じ心、教会が愛し合い受け入れ合っているかどうかを心としたのです。この「適任」という言葉にはテストに合格した、という意味があります。何もなく自然とそうなったのではなく、練られて整えられて身に着けていったのです。

テモテを送る本当の理由

 この箇所は内容的にはパウロがテモテをピリピに送るということですが、テモテの名前を出すことで、同じ心をもつことのモデルを示したのだと思います。そういうテモテも、愛さなければという義務ではなく、弱いながらもパウロに愛され、祈られ、助けられ、励まされて愛を学んだのでしょう。私たちもたくさんのテモテに愛され祈られてきました。私も誰かのテモテになれますように。

7月24日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙2.25-30から「キリストに賭けた人」と題してメッセージです。


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