カテゴリー

まだまだこれから

2022年9月4日(日)

9月を迎えました。秋の大きな行事の一つに運動会があると思いますが、今日の聖書の箇所にも「賞をいただくために、目標を目指して走る」といった言葉が出てきます。パウロは信仰生活をこのレースにたとえて捉えていました。9月4日(日)の礼拝はピリピ人への手紙3.12-16から「まだまだこれから」と題してメッセージです。

すでに捕らえたとは考えない

 7節からパウロは何度も「キリスト」と書き綴りますが、そのあとに出てくるのは「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもない」という言葉です。パウロはキリストを知っていましたが、それでもう十分だ、すでに得たとは考えていませんでした。パウロほどキリストを知っていてもすでに完全にされているのではないと言うのです。ただ捕えようと追求している、それはキリストがそのように自分を捕らえてくださっているからだと言うのです。

うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばす

 キリストを捕らえようとしているパウロは、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばしている状態です。この「身を伸ばす」という言葉は、ランナーが最後ゴールするときに少しでもゴールテープに体を近づけて傾ける、その姿を表しています。それはこれまでよりさらに、もっとイエス様に近づき、イエス様に傾く姿勢。それが目標を目指して走る走り方なのです。

その目標とは、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくことです。そのようにキリスト・イエスが私を捕らえているのです。イエス様のとりなしと助けがあったから今までも走って来ることができたし、これからも走り続けることができるのです。

大人はこのように考えます

 十分に成長している大人のクリスチャンはこのように、つまり、自分はまだまだこれからで、キリストになお自分を傾けていくことを考えるというのです。これまでの知っていること、分かっていることに留まる方が楽で安心しますが、それは身を伸ばしていることにはなりません。キリストに身を伸ばすというレースを完走するようにイエス様が捕らえていてくださいます。共に走り抜くお互いであり、教会でありますように。

9月11日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙3.17-4.1から「私に倣う者となってください」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved