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神に背負われて

2022年9月18日(日)

本日は年長者祝福礼拝です。天授ヶ岡教会では75歳以上の教会員の方に、年長者祝福のお祈りをおささげしています。年長者の方が教会におられることは、教会にとって大きな喜びであり、恵みです。今日はコロナ禍もあって全員が集まることはできませんでしたが、これからも人生と信仰の先輩として尊敬と感謝をもって祈り続けたいと思います。9月18日(日)の礼拝はイザヤ書46.3-4から「神に背負われて」と題してメッセージです。

人に背負われる神

 46章の1-2節にはベルとネボという神々の像が荷台に乗せられていく様子が描かれています。今みたいにきれいに舗装されているわけでもない道の上を、動物がこれらの像を乗せて歩いているのですが、今にも像は落ちてしまいそうなほど危険です。これは、何か危険が迫ってきたときに、ベルやネボは自分を信じる者だけではなく、自分自身の像さえも救うことができないということを意味しています。そして反対に人の方が、これらの像を守らなければならないのです。ですから、「疲れた動物の重荷となって運ばれる」と言われています。自分で自分をお世話することができず、人がお世話し、人が持ち運ばなければならない神は、無意味であると聖書は指摘しているのです。

人を背負う神

 しかし3-4節でそれとは全く反対の神が描かれています。それは胎内にいたときから、生まれる前から私たちを持ち運び、年をとっても白髪になっても変わらず私たちを背負って救い出すと言ってくださる神様です。

神様に背負われている、そのことを「あしあと」という詩にしたためたマーガレットという女性がいます。この詩で、女性はある日夢を見ます。そこには主と歩いた二つの足跡がありましたが、一番つらく悲しいときにその足跡は一つになっていました。共に歩むと約束された主がどうして自分を捨てたのか、とこの女性は質問します。主の答えは「わたしは決してあなたを捨てたりはしない。足跡が一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」でした。後にこの女性は大きな事故に見舞われますが、そのときに自分が若い時につくったこの詩を紹介されます。主は真実で大きな慰めと励ましを注がれたのでした。

これまでも私たちを背負っていてくださった主はこれからも変わらず背負ってくださいます。

9月25日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙4.2-7から「神は近い」と題してメッセージです。


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