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主という名の神として

2022年10月2日(日)

2022年も下半期を迎えました。上半期を振り返り、「数えてみよ主の恵み♪」と賛美したいところですが、もしかしたら中にはその前の歌詞「望みも消え行くまでに世の嵐に悩むとき」が心に残る上半期だったかもしれません。希望が持てないほどに悩んでいる、それはイスラエルの人たちもモーセも同じでした。ファラオに去らせてくださいと言ったばかりに、去るどころか重労働を課せられるようになってしまった。どこに希望があるのか、事態はもっと悪くなった。そう感じているイスラエルの人たちとモーセに向かって、神様はご自分のことばを再確認させ励まします。10月2日(日)の礼拝は出エジプト記6.2-13から「主という名の神として」と題してメッセージです。

わたしは主である

 目の前の現実に弱音をこぼさざるを得ないイスラエルの人たちとモーセに向かって、神様は「わたしは主である」とご自分に目を向けるよう教えます。この主は一般名詞ではなく、固有名詞、神様のお名前です。そしてこの主ということばは、「アブラハムの子孫を祝福し、カナンの地を与える」という契約を忠実に果たすという意味が込められています。神様がそうされるのは「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神」となるためなのです。

主の民となるため贖われた

 私たちが主の民となるため、主は私たちを贖うと言われました。これは代価を払って買い戻すことを指します。今やファラオのもとにいるイスラエル、そして罪のもとにいる私たちを主は小羊の血を払って買い戻してくださいました。私たちが主の民となるため、神の小羊イエス様の血が支払われました。

それを聞いて

 私たちを買い戻し、契約を果たす主だと言われても、イスラエルの人たちは失意と激しい労働のためモーセの語ることを聞くことができず、モーセも無理だと言いました。神様のことばよりも現実に圧倒されてしまいました。

しかし契約をお忘れにならず実行されるのが主なのです。私たちも現実の苦しみの中で、もう信じられないと弱音を吐きますが、今は主が着々と備えておられるとき、また主をさらに知っているときなのだと受け止めて待ち望みたいと思います。

10月9日(日)の礼拝は、出エジプト記6.14-7.13から「わたしが主であることを知らせるために」と題してメッセージです。


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