カテゴリー

わたしが主であることを知らせるために

2022年10月9日(日)

今日は関西聖書神学校から、神学生が礼拝訪問に来られました。普段はなかなか遠くて行くことも会うこともできませんが、こうして来て下さると、神学生ってこんな人なんだな、神学校ってこんなところなんだなと知ることができます。

出エジプト記にも「わたしが主であることを知る」という表現が何度も出てきます。これは単に神様がいることを知るということではなく、私にとって、私たちにとって、世界にとって神様がどんなお方かを知るという意味です。10月9日(日)の礼拝は出エジプト記6.14-7.13から「わたしが主であることを知らせるために」と題してメッセージです。

モーセとアロンの系図

 6章14-27節の系図は、26-27節にあるように「このアロンとモーセ」がどこから来たのかを示すために記されています。ですから系図のすべてを網羅しておらず2人に集中するように描かれています。エジプトでのイスラエルの人たちの叫びにみこころをとめられた主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ、彼らの子孫からモーセとアロンを選び立てられました。

主が言われた通りに動くモーセとアロン

 前に一度ファラオのもとに行ってうまくいかなかったモーセは、再びファラオのもとに行くよう主に言われたときに渋りました。そこで主はモーセが神様の声を聞き、その声をアロンに教え、アロンがファラオに語るようにされました。二人とも自分がしたいように、自分の考えで進めたのではなく、主が命じられたとおりに行いました。これは今の私たちも同じです。主が命じられること、してほしいことをする。こう言われると熱心な伝道が思い浮かびますが、自分の言いたいことやしたいことを押し付けるのは愛ではありません。イエス様が地上でされたのは、その人を受け止め、話を聞き、それに応えることでした。

エジプトにも

 神様はモーセとアロンにだけ行くよう言ったのではなく、神様もお働きになります。そのときしたことはファラオの心を頑なにすること。それはそのことによってファラオも、エジプトにいる人も主を知るためです。神様のみこころはイスラエルの人たちだけでなく、すべての人に向けられています。私たちの周りの人たちも、主を知ることができるように祈りと笑顔で過ごしましょう。

10月16日(日)の礼拝は、出エジプト記7.14-8.15から「主のような方はほかにいない」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved