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クリスマスに苦しんだ男

処女マリヤへの受胎告知、家畜小屋でのキリスト誕生、真夜中の天使たちの大賛美、羊飼いたちの来訪、東方の博士たちの貢ぎ物…。そのイメージが正確かはともかく、私たちはキリスト誕生の全体像を知っています。しかしキリストの両親となるヨセフとマリヤはその全体像を知りませんでしたし、見えていませんでした。ですから私たちが受け止めるキリスト誕生と、彼らが受け止めるキリスト誕生には違いがあるはずです。どんな違いか?ということで、12月11日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第1章18節〜25節から、「クリスマスに苦しんだ男」と題してメッセージでした。

受け入れがたい状況に直面する

クリスマスに苦しんだ男とはキリストの父親になるヨセフです。12月25日に苦しんだのではなく、キリスト誕生の当事者として苦しんだということです。ヨセフはマリヤと婚約していました。そのマリヤが知らぬ間に妊娠。マリヤには早々に御使が聖霊によって妊娠すると告げられていましたが、ヨセフにはそれがありませんでした。マリヤからそのことを聞いたどうかわかりません。しかしそれはありえないことだし、相手があるならヨセフは傷つき、親族も不名誉を被り、マリヤが姦淫の罪に問われる可能性もありました。実に受け入れがたい状況です。私たちにも「何でこんなことが?」「神様の罰か?」「いや神などいるのか?」と思えるような、受け入れがたい状況に直面することはないですか?それは神様の罰でも神様がいないのでもありません。神様を信じ、神様に選ばれた人にとって、それは神様の恵みの世界への「入り口」となっているのです。

受け入れがたい状況に悩み考える

ヨセフは「正しい人」でした。最善の方法を考えました。目立たぬうちにひそかにマリヤを離縁すること。彼の一身上の都合で婚約を解消すれば、後に相手の男と結婚してもそう不自然なことはないし、罪に問われる可能性は低くなる。でもゼロにはならない。彼の感情も悶々としたものがあったでしょう。ああでもないこうでもないと思い巡らし続けました。私たちにも受け入れがたい状況に直面して、悩み考えることってないですか?それは悪いことでも不信仰なことでもありません。ヨセフは悩み考えたからこそ、後の御使の言葉がすっと受け入れられ、新たな一歩を踏み出せました。「あの悩み苦しんだことはこういうことだったのか」「だから神様はあのようなところを通されたのか」と過去の経験を理解し、新たな経験に従える。神様を信じ、神様に選ばれた人にとって、悩み考えることは、神様の恵みの世界へ入る「備え」となっているのです。

受け入れて始まる神様の恵みの世界

ヨセフはいつの間にか眠ったようです。夢で御使が語りかけます。その内容はヨセフの答えとは正反対。マリヤを離縁するのではなく、妻として受け入れること。彼が心配したことは何も起こりませんでした。そしてキリストはイエスとして誕生しました。マリヤ同様、ヨセフの信仰を通してもキリストはこの世界に来られました。受け入れがたい状況に直面し、悩み考え、早く片づけて忘れたい、でもできないというとき、逆に受け入れてみる。今までとは正反対な態度を取り始めるとき、新しい視点や展開がある。これを適応的思考、適応的行動と言います。これは心理学の世界や治療だけのものではありません。神様と私たちの関係にこそ、これがあるのです。自分の考えや世の中の常識にとらわれないで、神様に向いて聞いて従う。行き止まりだったはずが新しい世界に通じている。望みはないと思っていたのに希望がある。敗北だと思っていたのに勝利がある。受け入れて始まる神様の恵みの世界があるのです。

クリスマスは、私たちが罪と死で小さく凝り固まった世界から、神様の救いと恵みの大きな世界に飛び込む信仰のチャレンジの時。ヨセフやマリヤが特別だったのではありません。私たちみんなが神様に愛され選ばれています。選ばれない方が楽ですか?今の時代や社会状況は決して楽ではありません。どんな中にも神様は私たちと共におられます。どんな状況でも恵みを生み出されます。その神様に私たちがどう応答するかが問われています。キリストを受け入れて始まる救いの世界、神様の恵みの世界を共に堪能してまいりましょう。

12月18日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第2章1節〜15節、ヨハネによる福音書第1章4節〜5節から、「闇に打ち勝つ光」と題してメッセージです。

 


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