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生活の順番

「一年の計は元旦にあり」と言いますが、この一年を様々に思い、願い、求めておられる方は多いと思います。年始に限らず、私たちの生活には何事にも「はじめ」や「まず」があります。月のはじめ、週のはじめ、一日のはじめなど。そしてそのはじめにまずするべき事がある。まずするべき事は人によって様々でしょう。しかしキリストは、誰もが、何事のはじめにも、まずするべき事、求めるべき事がある、と語ります。ということで、元旦礼拝は、マタイによる福音書第6章25節〜34節から、「生活の順番」と題してメッセージでした。

「天の父」である神様に求める

キリストはまず私たちが普段求めているものを語られます。それは「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という、細々(こまごま)とした日常の必要です。「これらのものは必要ない」とか「考えるな」と言っておられるのではなく「心配するな」と言われます。それよりも「命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」。世間でも「命あっての物種」とか「からだが資本」と言います。命とからだがあるからこそ、考え、学び、働き、お金を得、ものを買うことができる。命とからだは神様が与えてくださったもの。もっといえば、この命とからだを生かす光や空気や土や水も神様が与えてくださったもの。細々とした日常の必要に目を向けることも大切ですが、それよりも命とからだ、そしてより大きな世界に目を向けることが大切です。そして命とからだとこの世界を与えてくださった神様に求めるべきなのです。

まず神の国と神の義とを求める

キリストは「天の父」である神様に「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われます。神の国とは天国に限りません。神様の支配、秩序、力、富、保護のあるところを言います。神の義とは神の国の国民としての権利、保証、自由を言います。みなさんはどの国の国民ですか?世の中にはいろんな国がありますが、どの国の国民かでその権利や保障や自由、また仕事や教育、医療や福祉も随分違ってくるのではないですか?そして細々とした日常の必要ほど激しく左右されるのではないでしょうか。目先のものよりもより大きなものが大事。世の中のどの国の国民かよりも神の国の国民であるかこそ大事。どうすれば神の国の国民になれる?キリストを私の救い主と告白してバプテスマを受けることです。バプテスマは出生届のようなものです。出生届した国において、日々必要に応じて、様々な権利や保障を求めるのと同じように、神の国においても、日々必要に応じて、様々な必要を神様に求めるのです。

一日分の苦労でよしとする

キリストは「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われます。「明日や将来の計画を立てるな」と言われているのではありません。「心配するな」。「一日の苦労」とは「今日という一日、ベストを尽くす」と言うことです。どの国の国民であっても遊んでばかりではありません。神の国の国民においても同じです。学びもしますし働きもします。学べることも働けることも、現状はさておき、本来尊い権利であり恵みです。苦労はあっても苦痛ではないのです。そして今日一日ベストを尽くせばそれでいい。明日の分や1週間分や1年分する必要はない。心配が先に立つと目の前の今日に集中できません。今日を大切にできなければ明日を大切にすることはできません。今日一日、神様に与えられた命とからだを用いて、神様に委ねられた生活や学びや働きを丁寧に営む、それでよしとするのです。

私たちはとかく、見るべき順番、するべき順番、求めるべき順番を逆さにしたり、間違ったりします。細々としたものはあっという間に消えて無くなります。肝心なものがないままだと際限の無い心配や苦労を繰り返すことになります。神様こそすべての与え主。まず、その神様に最も大きく肝心な神の国と神の義を求める。するとそれより小さなものや細々としたものは、自ずとおさまるところにおさまっていくのです。それが聖書の語る生活の順番なのです。

1月8日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第19章16節〜22節から、「若いときにすべきこと」と題してメッセージです。

 


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