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免疫力のある教会

私たちはニュースで「謝罪会見」を何度となく見ます。組織で長年不正が行われていて、それが告発されそうになると隠蔽をはかり、メディアが騒ぎ出して警察や検察が動き出し、隠しきれなくなって不正を認め謝罪会見。「人の振り見てわが振り直せ」という言葉がありますが、残念ながら同じようなことが繰り返されます。組織自ら不正や問題を認めてきちんと処理する力、自浄力や免疫力は無いのか?そして教会という組織はどうか?ということで2月5日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第5章1節〜13節から、「免疫力のある教会」と題してメッセージでした。

問題を問題として認めよう

「コリント化する」と揶揄されるコリントの町に誕生したコリント教会には問題が多数ありました。手紙の最初に取り上げられたのは先生自慢に他者批判。そして今回は「不品行」の問題です。「不品行」とは性的なことに関する問題です。その問題はコリントの町でも「それはないでしょ」と言われるほどのものでした。性に関しては後にパウロが触れますのでその時にしますが、ここでパウロが問題にしているのは、それほど大きな問題があるのに、コリント教会はそれを問題とも思わないで、先生自慢や他者批判し合っている(つまり自分は偉いと高ぶっている)ということです。それはとても滑稽なことでした。教会は自分の中に弱さや問題があることを認めることこそ大事なのです。

問題に向き合おう

パウロは問題を起こしている人を「取り除かねばならない」「さばいてしまっている」「サタンに引き渡してしまった」と激しく言葉を連ねます。パウロってキツイ?パウロはその場にいませんでしたが、その場にいるかのように、自分事のように痛み悲しみました。パウロはサタンと交渉してその人を引き渡したわけではありません。自らサタンの側に行ってしまったその人が、悔い改めて戻ってこようとしないなら、そのまま関係を絶つということです。しかしその関係を絶つ行為を通して、その人が心揺さぶられ悔い改める可能性に望みを置いています。教会にとって大事なのは、問題を問題として認め、問題を自分の事として向き合うことです。他人事のように見て見ぬふりすることや、放ったらかしにすることは寛容でも愛でもないのです。

問題と罪を見分けよう

問題を起こしている人は、関係を絶たねばならないほどコリント教会に大きな影響を与えていたようです。パウロはその罪の影響を「パン種」にたとえています。そして教会の営みをかつてイスラエルの民が奴隷から解放されてエジプトから脱出したことを祝う「過越の祭」にたとえています。イスラエルの民は小羊の血をもって救われ、種なしパンを食しました。祭のたびに「種なしパン」を食すことで、解放と自由の原点に立ち帰るのです。コリント教会はキリストの血をもって救われ、罪からの解放と自由を与えられました。問題があっても、問題に潜む罪に蝕まれることなく、問題に取り組むべきです。そのために聖書が「何が罪か」を記してくれます。教会は聖書によって罪を特定し、聖書の定めを越えないシンプルな生き方に立ち続けるのです。それが教会の「パン種の入っていない純粋で真実な祭」なのです。

教会は組織といっても社長や社員がいるわけではありません。「キリストのからだ」です。問題はあっても、問題に潜む罪に感染することなく、問題に取り組むのです。時には兄弟姉妹との断絶もありえます。教会のこのような側面を「寛容でない、愛がない」と言われることがあります。しかし私たちは世の中の組織が不正をしたら「寛容だ、愛だ」と簡単に赦すでしょうか。きちんと罪を明らかにし、厳正な処分を願い、問題をクリアしてほしいと願うはずです。それは寛容や愛の問題ではなく道義的責任の問題です。そうすることで更正の機会もあり、再び受け入れることもできる。それこそが寛容や愛ではないでしょうか。教会こそその営みを行うのです。認罪、謝罪(悔い改め)、赦罪、回復。そうやって免疫力をつけていく。その免疫力が社会をも変えるのです。

2月12日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第6章1節〜11節から、「仲裁力のある教会」と題してメッセージです。


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