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仲裁力のある教会

私は年に一度生活習慣病検診を受けます。検査結果の中に正常値ではない数値がある場合、どういう場合にそうなるか、どうすれば良いか、短くコメントされています。指摘されて改めて自分の生活習慣に気づきます。コメントを参考に心して生活を変えます。すると数値も良くなり体感的にもすっきりします。喜びを感じもします。問題を指摘されることは悪いことではなくありがたいことだと思います。さて。パウロはコリント教会の生活習慣改善のためにコリント人への第一の手紙を記しました。どんな生活習慣か?ということで、2月12日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第6章1節〜11節から、「仲裁力のある教会」と題してメッセージでした。

問題に対する権威がある

今回の問題は金銭トラブルに関する仲裁です。なぜ自分たちで解決できないのか、と。パウロは裁判所を否定しているのではありません。コリント教会の人々は正規の仲裁ではなく、町で知恵自慢している「正しくない者」「教会で軽んじられている人たち」に仲裁を求めていました。パウロは神様に「聖徒」として召された教会には世と御使(元御使であるサタンも)をさばく権威があるのに情けない、と嘆きます。しかしその権威は簡単に振り回せるものではなく、ましてや乱用するのはもってのほか。だからといって易々と外注すべきでもない。教会はまず自ら問題に向き合い、どうしたら乗り越えられるか丁寧に判断するべきです。その中で裁判所に仲裁を求めることが適切と判断されれば求めればいいのです。そういう丁寧な判断の繰り返しこそ、権威を慎重に用いて身につけていくことになるのです。

問題に対する態度がある

パウロは4章で「わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく」と記しますが、ここでは「わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである」と記します。どっちやねん!パウロはコリント教会の甚だしい言行不一致を皮肉っているのです。さんざん知恵自慢、他者批判しておきながら、事件が起きるとその知恵や自信はどこへやら。慌てて仲裁の外注です。さらに被害者が加害者に仕返ししているのです。パウロは5章で「しかし、わたし自身としては…そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている」と記しますが、ここでは「互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか」と記します。どっちやねん!パウロはお人好しの被害者であり続けろと言っているのではありません。加害者と同じ罪を犯さず、問題の中にある罪を見分け、罪の連鎖を断ち切って、乗り越えなさいと言っているのです。

問題を分かつ基準がある

パウロは5章にも罪とは何かを記しましたが、ここで再度、また追加して記します。習慣とはある意味怖いもの。でもある意味大切な力。間違った習慣は自分を害しますし周りにも迷惑をかけます。しかし健全な習慣は自分を健康に維持しますし周りを助ける余裕も生まれます。しかし何が間違った習慣で何が健全な習慣か知る必要があります。習慣とは無意識に行ってしまうほど身についていますから、改めて知り、心して変える必要がある。新しい習慣はそうやって身についていきます。コリント教会もそうでした。「コリント化する」と揶揄されるほどの罪習慣の中に生まれ育ちました。しかし神様の召しに応答して罪取り除かれ、聖徒という立場になりました。しかし生活習慣においてはまだ無自覚。だから何が以前の習慣で何が新しい習慣か、パウロは度々、そして繰り返し記すのです。そして定めを越えない生活、罪からの救いと解放を喜ぶ生活にいつも立つ。その継続によってキリスト化する、神の国を継ぐ者としてふさわしい生活が身についていくのです。

私たちは安易に人を裁くことなく、だまされるのでもなく、「義とされた者」らしく、お互いを大切にし、問題と罪を明らかにし、乗り越えて新しい関係や生き方を生み出す、仲裁力を身につけたいものです。

2月19日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第6章12節〜20節から、「自由を乱用しない教会」と題してメッセージです。


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