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自由を乱用しない教会

2月19日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第6章12節〜20節から、「自由を乱用しない教会」と題してメッセージでした。前回、生活習慣病検診について触れました。検診は健康に悪影響を与える習慣を教えられ、良い影響を与える習慣を学び、生活を変えていくためにあります。しかし私たちの生活は基本的に何の制約もありません。お菓子ばかり、塩辛いものばかり食べることもできる。たばこもお酒も(20歳以上ですが)際限なく吸うことも飲むこともできる。しかし多くの場合「ほどほど」にしていませんか?でもほどほどでいられず、すぐに限界を超えてしまうなら、自分でコントロールできない状態、その「もの」に依存している状態と言えないでしょうか。そこに果たして「自由」はあるでしょうか?

「腹」ではなく尊い「からだ」

コリントの町には「食物は腹のため、腹は食物のため」という言葉があったようです。自由を叫ぶ人々が、グルメをはじめとする、自分たちを楽しませることのために使ったようです。しかしパウロは「神は、それもこれも滅ぼす」と記します。「腹」とは生物学的な体と言うことができます。食物と「腹」はこの世界だけのもので、永遠という視点からすれば朽ちゆくものだ、と言いたいのです。私たちの世界は自由が大好き。神はいない。この世界が全て。強い者が生き残るだけ。ならば倫理は必要ない。何をしてもいい。本当に「腹」だけならそれでもいいかもしれません。しかしパウロは「腹」だけではなく「からだ」というものの見方があると言います。神様は人間を「霊とからだ」の存在として創造されました。霊とからだは不可分です。確かに一度「からだ」は死を迎えます。しかし死んで復活したキリストを信じる者は、再びからだを取り戻します。キリストの復活とキリストのからだに連なる私。私たちのからだは消費財のような「腹」ではなく、かくも尊い永遠性を有する「からだ」なのです。

「性」だけではなく大切な「人格」

今回のコリント教会の問題は「遊女につく」ことでした。コリントの町の丘には愛の女神をまつる神殿があり、そこで仕える男性や女性と性交渉することで神の御利益にあずかるとされました。コリント教会の中に「神の御利益にあずかる良いこと」と思っている人がまだいたのかも知れません。パウロはここで聖書の原則を示します。「ふたりのものは一体となるべきである」という創世記の一節。それは性交渉による一体だけでなく、強い契約による一体、信頼関係による人格的一体を言います。人間の性は性交渉だけ切り離して扱えません。「腹」と同じような消費財ではないのです。聖書から言えることは、原則に立つとき、結婚や性の本来の意味や目的や力が発揮されるということです。なぜ聖書のはじめにこの原則があるのか?それはこの原則が「神様と私」という関係を反映しているからです。あの神、この神々ではない。無神でもない。この世界を意味と目的を持って創造された神様に、私がずっと信頼することで、愛や物事の意味や目的を学び成長し成熟する。それと同じように、夫婦や家族お互いも、変わることのない、継続した信頼関係の中で、互いの「霊とからだ」が成長していくのです。そうやって安全で丁寧な関係社会が築かれるのです。

乱用による喪失ではなく原則に立つ自由

原則を忘れ自由を乱用するとは、使用目的と使用方法を無視するということです。そうなれば自分がコントロールしていると思っていても、いつの間にかコントロールを失うことになります。聖書の原則に立たない性交渉を繰り返すことは、自分の大切な「からだ」を何度もくっつけたり引きはがしたりすることになります。「霊とからだ」は不可分ですから、私という全存在が習慣的に傷つくことになります。それは自分を自分で虐待するのと同じ。その影響は周りにも及びます。今の時代、社会的な奴隷制度は影を潜めています。しかし夫が妻を、妻が夫を、親が子どもを、子どもが親を、また共に生活するパートナーを虐待する事件が後を絶ちません。学校や職場もいじめやブラックと言われる虐待が横行しています。自由を高らかにうたいながら、身近な関係が、安全でも丁寧でもない、人格と人命軽視も甚だしい、自由を失った関係になっていないでしょうか。そして社会全体が、変わらない愛や信頼関係、人格的な成長や成熟を失いつつあるのではないでしょうか。だからこそ、一人一人が聖書の原則に立ち帰るべきなのではないでしょうか。

自由とは「自らのわけ」と書きます。自らのわけを知り、自らのわけに従うことが自由。聖書は「自らのわけ」を語りかけます。原則に立った自由を学び、神様の栄光を現す生活を身につけたいものです。まずは神様にいただいたキリストの救いと、罪からの解放を喜んで分かち合いましょう。そして神様に与えられた様々なものを「神様からの恵み」として受け取り直していきましょう。

2月26日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第7章1節〜16節から、「極端に走らない教会」と題してメッセージです。

 


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