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極端に走らない教会

ニュースを読んでいると「過激派」や「原理主義」という言葉をしばし目にします。それらの言葉には「禁欲」のイメージもあります。そして「自由」という言葉と対極にあるようにも思えます。世の中は自由を高らかにうたい、主張し、叫びます。それは「自らのわけを知って自らのわけに従う」自由というよりも、自らのわけも他者のわけも自然界のわけもお構いなく、傷つけ奪い破壊するものになっていないでしょうか?聖書ではそれを放縦と言います。この放縦に対する強烈な反動が原理主義。本当はこうあるべきだ、いや絶対こうすべきだ、原理から外れるなら罰すべきだ!振り子が左右に振れるように、放縦が自由を叫べば叫ぶほど原理主義も禁欲を叫ぶ。実はコリント教会も放縦と禁欲に激しく揺れていました。ということで、2月26日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第7章1節〜16節から、「極端に走らない教会」と題してメッセージでした。

放縦でも禁欲でもなく

コリント教会には父の妻と同棲する不品行な人がいました(第5章)。宗教的御利益にあずかるため遊女につく人もいたようです(第6章)。「食物は腹のため、腹は食物のため」という自由を乱用する放縦がありました。しかしその強烈な反動として、「町の不品行な者たちと交際するな」「結婚してはいけない」「結婚しているなら離婚しなければならない」と主張する者が現れました。結婚は悪だ!性交渉も悪だ!と言わんばかり。しかしパウロは「前の手紙」で教会の中の不品行を続ける者と交際するなと言ったのであり、町から孤立することや結婚の禁止や離婚を勧めたのではありません。「ふたりの者は一体となるべきである」という聖書の原則に立つ結婚と性交渉こそ大切にしなさいと言うのです。パウロは「自制力の無いのに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない」と記します。「自制力の無い」は「放縦」と訳せる言葉です。実は原理主義的強制は自制力を強化しません。禁欲に効果はないのです。どうですか?世の中の放縦と禁欲が生み出す結果(たとえば性的暴力・搾取・奴隷による人格・人命軽視)が、どちらが過激なのかと思うほどに、よく似ていると思いませんか?

神の賜物で平和に生きる

パウロは結婚したいならすればいいし、結婚しているならそのままでいなさい、「命じるのは、わたしではなく主」だと記します。これは原理主義的強制ではありません。主(神様)こそ結婚も性も様々な欲求も創造されたお方。主が言われる使い方が一番確かで安全で、最も喜びとなるのです。さて。現代に生きるクリスチャンにおいても、結婚や性に限らず原理主義的強制が入り込んでいないでしょうか?キリストの救いにあずかり、罪から解放されたはずが、いつの間にか、クリスチャンはこうあるべきだ!礼拝厳守!こういう奉仕をしなければならない!と自分にだけではなく、他者にも強制していないか?クリスチャンでない家族がそれでドン引きしているのに「なぜ信じないんだ!」と批判し、「私の祈りが足りないからだ、いやクリスチャンらしくないからだ、もっと頑張らなければ!」と自分を責め鼓舞していないか?私たちは何のために神様に召されたのか?神様からいただいた賜物(救いをはじめとする様々な恵み)を大切にし、喜び楽しみ、一番身近な人(伴侶や家族)から分かち合っていくためです(礼拝も奉仕も喜び楽しみ営むもの)。たとえ分かち合ったものを受け取らない人がいても無理強いしない。受けることも拒否することも、来ることも去ることも強制しない。どんな場合も眉間にしわではなく、お互いにっこりできるために。

他者はどうあれ、私は神様の賜物を大切に喜び楽しんで生きる。喜び楽しんで分かち合う。それが自らのわけを知り、自らのわけに従う者の姿。原則に立つぶれない生き方。振り子で言えばそこが支点。そこから離れれば離れるほど放縦も禁欲も激しくなるのです。

3月5日(日)の礼拝は、創世記第11章10〜32節から、「神の歴史の再始動」と題してメッセージです。


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