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神の歴史の再始動

「歴史は繰り返す」と言われます。しかしそれは千年前と千年後で同じ生活をしている、と言うのではなく、同じ本質のようなものがある、ということではないでしょうか。たとえば戦争です。神様に向かず聞かず従わず、神様から与えられる命や知恵や愛を人から奪い支配し台無しにしてしまう罪が本質です。人は過去の過ちを記憶し反省し未来に生かす努力をしているようで、過去を忘れ高慢になり未来を失うようなことを繰り返していないでしょうか。高い塔を建てることには熱心でも、歴史に謙虚に学ぶ積み上げができていないのではないでしょうか。では神様はどうか?歴史は「神の物語」とも言われます。「歴史は繰り返す」と言われるように、聖書にも似たようなことを繰り返し記しているところがあります。ということで、3月5日(日)の礼拝は、創世記第11章10節〜32節から、「神の歴史の再始動」と題してメッセージでした。

死よりも命へ

ここではノアの子、祝福されたセムの系図が記されています。ノアからテラまでの十代です。そしてテラの父であるナホルは短命です。創世記第5章にはアダムの子、主の名を呼ぶセツの系図が記されています。アダムからノアまでの十代です。そしてノアの父であるレメクは短命です。この二つの系図。同じようなことが繰り返されています。しかし明らかな違いがあります。最初の系図は「○○年生きて、男子と女子を生んだ。そして彼は死んだ」と繰り返され、後の系図は「○○年生きて、男子と女子を生んだ」と繰り返されます。後の人は死ななかったのではなく、視点が変わったのです。確かに後の系図は人の年齢が段階的に短くなっていきます(洪水によって「上の水」が失われたことによる環境変化、有害な宇宙線が地上に達するようになったからと言われます)。前より悪くなったように見えます。しかし聖書は「死んだ」よりも「生きて」を繰り返す。死はアダムによって人に入り込んだけれども、神様からの命と祝福は人から人へ接がれ、死によって途切れることはない。死よりも命へ、もっと命へ、さらに命へ、創世記から黙示録に至るまで、らせんを描くように、かつまっすぐに、神の物語は進んでいくのです。

止まるよりも踏み出す

歴史は神の物語であると共に「神のかたち」である私たちの物語でもあります。最初の系図の最後はノアの物語が展開し、その子セムが祝福されました。セムの系図もその最後にテラの物語が展開し、その子アブラムが「祝福の基」となります。テラは家族を連れてカルデヤのウルを出てカナンを目指します。しかしハラン(先に死んだ息子と同じ名前の町)で生涯を閉じます。セムの系図の中でハランとテラだけ「死んだ」と記されます。聖書の別の箇所で「アブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていた」と記します。テラは神様に向き直り、生活を変えようと踏み出した。しかし途中で他の神々や過去の生活を振り返り止まってしまった。それを聖書は「死んだ」と表現するのかも知れません。人々が高い塔を建てて一つ所に止まろうとしたとき、神様は人々を散らされました。それは他動的・消極的な祝福と言えます。しかし私たちが神様に向いて聞いて従って踏み出し、進み続けるなら、それは自動的・積極的な祝福となります。神と神のかたち。神と私たちの物語。その両輪によって祝福が現れる。罪と死をもたらす歴史ではなく、命と祝福をもたらす歴史を繰り返す。今引っ越しせよとか、転職せよとか言っているのではありません。人生が旅。神の物語に学び、聖書の歴史に導かれ、祝福「される」だけではなく祝福「する」旅に踏み出し、進み続けたいと思います。

3月12日(日)の礼拝は、創世記第12章1節〜9節から、「祝福はあなたから」と題してメッセージです。


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