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十字架が奏でる賛美

20数年前不思議な夢を見ました。荒野に立っていました。どこからか、どんな楽器も出すことのできない音色にのせて歌が聞こえてきます。聞こえてくる方へ歩いて行くと電車の駅にたどり着きました。構内に音色が充満しキラキラ輝いて見えました。歌は「この道はキリストの道、苦しみの道」という言葉を繰り返しています。キリストの十字架を思わせる言葉です。停まっている電車には白い衣を着ている人が数人座っていて、私が乗り込むと電車は走り出しました。そこで目が覚めます。しかししばらくの間その音色と歌は目に見え耳に聞こえていました。それ以来、キリストの十字架が、しかも苦しみの十字架が、どうしてあんなに美しい賛美となっていたのか、考えるようになりました。ということで、4月9日(日)棕櫚の主日礼拝は、マルコによる福音書第15章と詩篇第22篇から、「十字架が奏でる賛美」と題してメッセージでした。

十字架の出来事

マルコによる福音書第15章はキリストの十字架の出来事を記します。前の晩、キリストはゲツセマネの園で捕らえられ、不当な裁判にかけられ、群衆は「十字架につけよ」と叫びます。ローマ兵たちもキリストから上着をはぎ取りくじで分け、むち打ち、茨の冠をかぶせ、つばきし、棒で叩き、十字架に手足を釘で打ち抜きました。群衆は罵詈雑言を浴びせます。人間のあらゆる怒り、憎しみ、罪を浴びに浴びたキリストの姿がそこにありました。しかし場面は急変します。昼、暗闇が襲います。人々の罵詈雑言はなりをひそめキリストの声がこだまします。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。そして死。すると十字架の前にたたずむ人がひとり。ローマの百卒長です。「まことに、この人は神の子であった」。キリストに罪はなく、私たちの罪のために死んで下さったという信仰の告白です。さらに場面は変わります。暗闇が過ぎ去るとそこにはキリストに従ってきた大勢の弟子たちの姿が。彼らこそ、キリストの十字架の死と復活という私たちの救いを宣べ伝える者たちでした。

十字架の賛美

次に詩篇第22篇です。キリストから遡ること千年。ダビデの賛美。「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」で始まり、罵詈雑言を浴びせる人々や服をくじで分ける人々の姿が出てきます。そして十字架を体験した人しか表現できないような苦しみを記します。しかし悲惨な描写が極限に達すると一転、賛美に変わる。そして「子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、主がなされたその救いを後に生れる民にのべ伝えるでしょう」で終わります。十字架の出来事とピタッと重なる。詩篇第22篇はダビデを通して記された神の言葉です。そしてキリストも「神の言」といわれるお方です。実は神の言葉が実現すること、神の言葉が成し遂げられることが神様への賛美なのです。キリストは詩篇第22篇1節を力を振り絞って叫ばれました。そして十字架のみわざを成し遂げられました。しかし十字架につけた人々はまさか自分たちが詩篇第22篇を演じているとは思わなかったでしょう。神様も群衆を操ってキリストを十字架につけさせたのではありません。群衆は群衆で心底怒りと憎しみをもってキリストを十字架につけた。しかし神様は人々がそうすることを見越して、そんな人々をも救いうる救いを計画されていたのです。

十字架の出来事は賛美を奏でていた。しかしそれは神様が心地よく聞いておられたということではありません。詩篇第22篇の苦しみは神様ご自身の苦しみでもある。十字架の出来事は父と御子が共に紡ぎ出された賛美なのです。そして十字架の出来事は今やこの上もない救いの賛美となっているのです。それと同じように、神様の言葉に聞いて従う私たちの人生も神様への賛美となるのです(歌う賛美はほんの一部分)。順風満帆な時もあればそうでない時もある。山あり谷あり。苦しみの道もある。しかしそれは「キリストの道」。人生が奏でる賛美は、やがて主とまみえる日、この上もない歓喜となって、栄光と共に私たちを包むのです。

4月16日(日)はイースター召天者記念礼拝。ヨハネの第一の手紙第1章1節〜4節、第5章10節〜13節から、「永遠の命を得る喜び」と題してメッセージです。


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