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永遠のいのちを得る喜び

私たちは「永遠の」という言葉を使ってやみません。永遠の友情、誓い、愛、いのち…。どれも印象の良い言葉が続きます。しかし実際はどうでしょう。長続きしないことがありはしないでしょうか。しかしそれでも私たちが「永遠の」という言葉を使ってやまないのは、永遠に変わらない友情や誓いや愛やいのちへの強い欲求があるからではないでしょうか。それらのものが必ずあるはずだと思うからではないでしょうか。そういう欲求に応えてくれるものがただ一つあります。それがイエス・キリスト。ということで、4月16日(日)のイースター召天者記念礼拝は、「永遠の」と続く言葉の中から「いのち」に絞って、ヨハネの第一の手紙第1章1節〜4節、第5章10節〜13節から、「永遠のいのちを得る喜び」と題してメッセージでした。

永遠のいのちはイエス・キリスト

ヨハネはリアルなキリストと毎日、何年にもわたって寝食を共にした弟子です。ヨハネはキリストを「いのちの言」「このいのち」「この永遠のいのち」と記します。そしてキリストは神様からの私たちへのプレゼントで、このプレゼントを受け取れば永遠のいのちを持つのです、と語りかけます。ヨハネがキリストを一言であらわすなら「永遠のいのち」。キリストが私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んだにもかかわらず、死を打ち破って、新しい復活のからだをもってよみがえり、天に帰って行かれた、その有様を目の当たりにした実感でした。またキリストに出会った多くの人々が変えられていく姿を目の当たりにした実感でした。

永遠のいのちに出会った人々

ある人は全身麻痺の中風でした。友人たちに担架にのせられて二階からキリストの前につりおろされました。キリストはそれを見て言われます。「あなたの罪はゆるされた」「起きよ。床を取り上げて家に帰れ」。その人は癒やされました。ある人は目が見えず道で物乞いをしていました。キリストが通りがかると、人々の制止を振り切って「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び続け、見えるようになることを求めます。するとキリストは言われます。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。ある時は子供たちがキリストに駆け寄ってきました。弟子がそれを制止しようとするとキリストは憤り「幼な子をわたしの所に来るままにしておきなさい。神の国はこのような者の国である」と言われ、子供たちを祝福されます。ある人は金持ちだけれども皆に嫌われていた取税人でした。キリストが町に来られますがその人は背が低く人垣で見えません。そこで先回りして木に登って待ち構えました。キリストがそこを通られると「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。あなたの家に泊まることにしているから」と言われ、彼は急いで喜んでキリストを迎え入れました。人々はキリストを「罪人の家にはいって客となった」と非難しますが、キリストは「きょう、この家に救いがきた」と言われます。

永遠のいのちで生きる私たち

これらの人々に共通して言えることは、キリストにまっすぐ向かい、キリストに(を)求めたということです。そして求めたものも与えられたけれども、それ以上のもの、罪の赦しや神の国や救いの宣言をいただいたということです。それらのものを言い換えるなら「永遠のいのち」。キリストは、キリストに(を)求め、キリストを受け入れる者に、最上のものである永遠のいのちを与えてやまないのです。永遠のいのちそのものであるキリストにとって、それ以下はあり得ないのです。私は死の間際にキリストに出会い救われ天に召されていった方々を見てきました。本人にも看取る家族にも平安と慰めと喜びがありました。その様を見て思ったのは「最期に求めるもの、価値あるもの、その人の意識と存在を死の向こうまで確かにするものは『永遠のいのち』以外にない」ということでした。この最上のものを後回しにする手はありません。地上の生活からこの永遠のいのちを喜び楽しみたい。永遠のいのちが地上の生活を導くのであって、地上の生活が永遠のいのちを導き出すのではないから。何はなくとも永遠のいのち。永遠のいのちあっての私たち。永遠のいのちであるキリストに、復活を経て新天新地の生活に至るまで導かれてまいりましょう。

4月23日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第7章24節〜40節から、「変わりなく主に仕える教会」と題してメッセージです。


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