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信仰生活の日常

アブラムとロトはお互い財産がありすぎて生活の袂(たもと)を分かちました。アブラムは神様が約束された地、ヨルダンの西側の高地にとどまり、神様への祭壇を築いて生活していました。ロトは見目麗しいヨルダンの東側の低地に移り、悪名高きソドムに落ち着きます。そこへ問題発生!ということで、5月7日(日)の礼拝は、創世記第14章1節〜24節から、「信仰生活の日常」という題でメッセージでした。

他者を助けるためにある

ロトが住んでいた地域は5人の王が治めていました。しかしその上にアブラムの生まれた地域の4人の王が君臨していました。5人の王は12年4人の王たちに仕えますが反旗を翻します。4人の王たちはヨルダンの低地になだれ込み、5人の王たちは逃げだし、住民や財産が奪われることになります。ロトも例外ではありませんでした。その知らせを受けたアブラムはロト救出に動きました。「言わんこっちゃない!」とロトの選択や生活を批判することもなく、ただ助けるために動き出しました。私たちの信仰生活の日常にはこのような危険や戦いがある、と言いたいのではありません。私たちの信仰生活の日常は、身近な他者を助けるためにある、と言いたいのです。

常に備えておくべきである

アブラムは同盟を結んでいた近所の3人の族長と共に、さらに「訓練した家の子三百十八人を引き連れて」夜襲をかけます。そして4人の王たちを破りロトを救出します。この勝利は、周到な作戦と日常から培われた良好な近所関係と備えなくしてありません。私たちの信仰生活の日常には近所との同盟が必要で、有事の際には軍事行動がとれるように備えなければならない、と言いたいのではありません。私たちは何もしないで神様任せ、何かあったらあったとき、ではいけないと言いたいのです。神も仏もあてにならないと備えるのでもありません。神様が与えてくださる恵みをいかに活用して備えるかが大切です。それは他者を助けるため。そして他者を助ける自分を生かすためでもあるのです。

神があがめられるためにある

ロトと共に戻ったアブラムを二人の王が迎えます。一人はサレムの王メルキゼデク。いきなり登場。素性は不明。旧約聖書では「とこしえの祭司」と言われ、新約聖書ではキリストのひな形となる人。彼は「天地の主なるいと高き神がアブラムを祝福されるように」「いと高き神があがめられるように」とアブラムを祝福します。もう一人はソドムの王。彼は住民も住民の財産も守らず逃げだしたにもかかわらず、「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」とアブラムに言います。アブラムはメルキゼデクの言葉を借りるようにして、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います」と言ってソドムの王の話しをきっぱり断ります。私たちは、信仰生活の日常において、地域との関わりを大切にし、良好でありたいと願います。しかし「これについて協力を惜しみませんが、こういう場合はできません」という線引きがあるのも事実。そしてその線引きが難しいこともあります。そんなときは一人で悩まない。アブラムにはメルキゼデクと彼の言葉が助けとなりました。私たちは教会みんなで考える。神があがめられる、他者への助けとその備えは何か?これが今回の原則。

教会のお互いは信仰の助け手。協力者。応援者。そして教会は身近な社会の助け手。協力者。応援者。問題の中にありながら、問題に染まらず、問題に取り組むことのできる教会として備えられたいものです。

5月14日(日)は母の日礼拝。エペソ人への手紙第2章11節〜22節から、「私たちは神の家族」と題してメッセージです。


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