カテゴリー

神の恵みを思い知る

DSCF1043

岡山県の教会で奉仕していたとき、農家の方々から旬野菜をよくいただきました(過去)。その旬野菜をいろいろに調理していただきました(現在)。私たちの健康は支えられ、子どもたちは元気に成長できました(未来)。いただいた恵みの過去、現在、未来です。

パウロはコリント人への第一の手紙で、まず神の恵みについて語ります。それが第1章4節〜9節です。コリント教会の人々への神様の恵みの過去、現在、未来が記されています。しかしそれはコリント教会の人々だけではなく、古今東西、すべての教会に与えられている神の恵みです。

すでに与えられた神の恵み

それは「すべての言葉」と「すべての知識」です。イエス様こそ言葉の中の言(ことば)です(ヨハネによる福音書第1章1節)。イエス様こそ知識の源です(コロサイ人への手紙第2章3節)。私たちがイエス様を信じるとき、すべての言葉とすべての知識を得たも同然です。「それはいくらなんでも無理があるのでは?」と思われますか?私は帰納的研究法という学び方で小学生と聖書の授業を2年ほどしたことがあります。私は聖書を語りません。子ども自ら取り組みます。聖書以外に用いるのは辞典や写真や絵や地図など。低学年の子どもも聖書を理解していました。イエス様を信じる人には、すでに、もれなく、聖書の言葉とそれを理解する知識は与えられているのです。そしてその言葉と知識によって、信じたイエス様、見えないイエス様を深く知るのです。

いま与えられている神の恵み

それは「恵みの賜物」です。しかも「いささかも欠けることがなく」です。恵みとは、私たちが生きるために無くてはならないもの、欠かすことのできないものです。「自然の恵み」って言いますよね。ここで言う「恵みの賜物」は主に教会の営みに必要な、欠かすことのできない賜物です。どんな賜物があるかはパウロが後に触れるのでその時に。ここで言いたいのは、一人にすべての賜物が与えられているのではないということ。100人の集まりなら100人でいささかも欠けることがない恵みの賜物が与えられています。20人の集まりなら20人でいささかも欠けることがない賜物が与えられています。その賜物をお互いのために用いることによって共に成長します。そして見えるイエス様が再臨される時に備えられるのです。

やがて与えられる神の恵み

それは「責められるところのない者にして下さる」恵みです。「すべての言葉」と「すべての知識」によって見えないイエス様を深く知り、「恵みの賜物」を用いることによって見えるイエス様の再臨に向かってみんなで成長してきます。そしてついに、再臨の日に、「責められるところのない者」にして下さいます。表現を変えるならイエス様に似る者とされる。コリント教会の人々は「コリント化する」と揶揄されるような価値観や習慣に生まれ育った人たちでした。しかしイエス様の救いに与り、神様に聖徒として召された人々でした。しかしなお様々な問題の中にありました。肩書きは聖徒でも実質は違いました。しかし神様は真実なお方。あきらめたり見放したりしません。元手をしっかりと与え、用い方を教え、交わりの中で、聖徒らしく、イエス様に似るまで、イエス様に会うまで、堅く支えて下さるのです。

出された料理しか食べないのではなく、自ら与えられた食材をよく知り、調理し分かち合い、共に健全に成長し、その恵みを世にも還元していく教会になるため、この手紙は記されていきます。次回、6月12日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第1章10節〜17節から「問題を乗り越える教会」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved