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本当に自由な人

自由とは無制限なこと、何でもありなことを言うのでしょうか。実は自由とは「自らの由(わけ)」を知り、それに従うこと。法律やルールや倫理があるのもそのため。しかし「自らの由」を知らなければ、それらは疎ましい不自由、破るための制限、自由の拳を振り上げる理由にしかなりません。聖書は、そしてコリント人への第一の手紙は、「自らの由」と、自由と制限の妙を教えてくれます。ということで、6月11日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第9章1節〜27節から、「本当に自由な人」と題してメッセージでした。

権利を用いない自由

コリント教会にはパウロを使徒と認めない人々があったようです(コリント人への第二の手紙でさらに状況がわかってきます)。使徒には条件がありました。地上におられた頃のキリストの直弟子たち(12弟子等)だったということです。この点でパウロは批判を受けることがありました。しかしパウロは復活のキリストに出会い、直接使徒としての召命を受けました。また使徒ペテロやヨハネよりも先にコリントを訪れ、コリント教会を生み出しました。コリント教会にとっては紛れもない使徒でした。もう一つパウロが批判される理由がありました。それは使徒としての権利を用いなかったということです(ここで記される使徒の権利は今日の牧師にも通ずるものがあります)。普通、権利を主張するのは自分の自由を守るため。しかしパウロはその権利を放棄する自由、用いなくてもいい自由、別のやり方でもやれる柔らかさを持っていたのです。

いかようにもなる自由

パウロは福音を伝えることは使徒の専売特許ではない、福音を伝えることで使徒の権利にあずかるのでもないと言います。それは当前。普段の営み。実は使徒たちよりも先に、無名の無数のクリスチャンたちがヨーロッパへ福音を伝えていました。パウロはパウロで福音を伝えるために「自ら進んですべての人の奴隷になった」と言います。実際に奴隷の身分になったわけではありません。相手に合わせて、相手のようになったのです。赤ちゃんに向かって難しい表情と言葉で接しますか?にっこり「今日も元気でちゅね〜」と話しかけません?赤ちゃんになったわけではありませんが、赤ちゃんを思って、赤ちゃんのようになって接する。赤ちゃんに限らず、相手の身になって接するよう務める。そうすることで伝えようとすることが伝わるのではないでしょうか?パウロは福音を伝えるために、自由人のようにも奴隷のようにもなる自由、相手の目線になるために自分を変える自由、いかようにもなる柔らかさを持っていたのです。

ぶれない自由

パウロは闇雲に相手に合わせたのではありません。そんなことをしていたら自分を失います。ぶれない目的がありました。「共に福音にあずかる」こと。パウロはコリント教会の人々になじみ深い町の競技会を例にあげます。2年に1度の一つの栄冠を目指して、競技者は日頃から練習を重ね食事や生活にも気を配りました。現在のアスリートにも通ずるものがあります。ある意味当然。普段の営み。苦しみではなく喜びのため。パウロは他を蹴落としてでも勝ち取るたった一つの朽ちる栄冠ではなく、滅びに至るトラックを走っている多くの人を福音のトラックに導き、福音のゴールである永遠の栄冠に共にあずかりたいと願いました。しかし福音のトラックに柵が張り巡らされているわけではありません。パウロ自身が福音のトラックからおりることもできます。そこも自由。そこでパウロは、自らが伝えた福音に忠実に生きることによって、「道を踏み外す」という自由に制限をかけたのです。

自由とは「自らの由」を知り、それに従うこと。そこには自由と制限がある。自由と制限を合わせて何と言うか?自制。セルフコントロール。自由と制限を使いこなせる人こそ、ぶれずにセルフコントロールできる人こそ本当に自由な人。パウロの手紙をはじめとする聖書から、「自らの由」を知って学んで身につけて、福音を分かち合い、福音のゴールを共に目指したいと思います。

6月18日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第10章1節〜33節から、「神の栄光を現す教会」と題してメッセージです。

 

 


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