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丁寧な神様

パブリック・リレーションズ(PR)とは、政府や企業や団体、またはリーダーが、国民や株主、サービスを受ける側の人々、またリーダーを立てた人々と双方向コミュニケーションを取りながら、微調整や軌道修正を行いつつ、目標や目的を達成していく関係活動を指します。その関係活動に欠かせないのが「説明責任」。その関係活動や説明を広報誌や機関誌で報告する。組織やリーダーの生命はPRと説明責任にかかっています。実はその原型ともいえるやりとりが聖書にあります。ということで、7月9日(日)に礼拝は、創世記第18章1節〜33節から、「丁寧な神様」と題してメッセージでした。

私たちのもてなしを受けて下さる主

アブラハムがカナンに来て25年。いろんな事がありましたが、信仰の原点であるマムレのテレビンの木の傍らで生活していました。そこへ3人の旅人がやってきました。しかし3人は普通の人々ではありませんでした。アブラハムは『主』という神様を呼ぶ言葉を使っています。当時族長は旅人をもてなすのが当たり前。アブラハムは主を含む3人を一生懸命もてなしました。今まで神様の方から一方的にアブラハムに語りかけ、約束し、導いてこられました。アブラハムも神様のお言葉に従おうと今日まで歩んできました。そんなアブラハムに対して、神様もまた尊敬と感謝を込めて『お言葉どおりにしてください』と従われました。子どものおままごとへの真心からの招待に、親や大人が真剣に丁寧に応じるように、神様は私たちのどんなつたないもてなしも、それが真心からのものなら、喜んで受けて下さる、優しく謙遜なお方です。

一人一人に向き合って下さる主

3人の旅人には目的がありました。来年サラに男の子が生まれると告げること。神様はアブラハムに語ってこられました。女奴隷ハガルにも語られました。でもサラはまだでした。アブラハムの祝福は伴侶であるサラの足並みもそろう必要がありました。神様はその時とみられ語られます。しかしサラの反応は17章でアブラハムが見せた反応とさして変わりません。サラが心の中で笑ったことを神様は二度指摘されますが、怒っておられるわけではありません。老夫婦にとってそれだけ非現実的なことだったから。神様は、信じ切れない自嘲的な笑いをサラに記憶させておられるかのようです。やがてイサク(笑い)を抱く時、神様が本当の笑いを下さったことを感謝できるように。神様は一人一人に丁寧です。そして私たちが「ああ、本当に良かった!」と言える導きをして下さるお方です。

粘り強く向き合って下さる主

3人の旅人にはもう一つ目的がありました。ソドムに行くことです。ソドム・ゴモラが悲鳴を上げている。人々の罪が非常に重いから。破滅状態にあった洪水前の時代のよう。それを実際に行って、見て、触れて、確かめる必要がある。ここも丁寧。しかし神様は自問されます。『わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか』。なぜ自問?神様は祝福の神様でアブラハムを通してこの世界に祝福を満たそうとされたから。滅びと祝福と何の関わりがある?いやしかし。アブラハムを通してソドム・ゴモラさえ祝福の可能性があるのでは?アブラハムはそれと知ってかとりなし始めます。ソドムには親戚のロト一族もいますが、他の人々のためにもとりなすのです。「ソドムに50人の正しい人がいても滅ぼされますか?」「いや、50人のためにすべてゆるそう」「もし45人いたら?」「40人いたら?」…「10人いたら?」「10人のために滅ぼさない」。アブラハムは粘り強い。神様はもっと粘り強い。神様は一人一人を大切にし、向き合い、何とか祝福しよう、何とか救い出そうとされるお方。目標を変えたり信念を曲げたりなさいませんが、私たちとのやりとりによって、その対応やプロセスを変更できるお方。優しく、柔らかく、丁寧なお方なのです。

神様と「神のかたち」の関係にこそPRと説明責任の原型がある。神様と人のやりとりの歴史と、神様の救い(目標)と祝福(目的)の広報誌が聖書です。アブラハムは神様とのやりとりの中で粘り強さを身につけていきました。私たちも神様の丁寧さと粘り強さを身につけさせていただきましょう。

7月16日(日)はカフェ礼拝。皆様の参加をお待ちしています。ヨハネによる福音書第14章6節から、「わたしが道である」と題してメッセージです。

 


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