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とりなしへの応答

祝福とは神様の命と支配と愛が、神のかたちの営みを通して、地に満ちることです。しかし人間は神様に向かず聞かず従わず、地に暴虐と死を満たしました。しかしノアは神様に向いて聞いて従って、箱舟によって水を経て、祝福を新しい世界へ持ち運びました。しかしまたも人間は神様に向かず聞かず従わなくなりました。しかしアブラハムが神様に向いて聞いて従い、故郷からカナンの地へ足を踏み入れました。神様はアブラハムを祝福の基とし、彼から祝福が流れるようにされました。そしてアブラハムの「10人の正しい人があれば」という、悪名高きソドムの町へのとりなしによって、人を救おうとされました。ということで、7月30日(日)の礼拝は、創世記第19章1節〜38節から、「とりなしへの応答」と題してメッセージでした。

懸命に救い出そうとされる神様

アブラハムを訪れた3人の旅人の内の2人は夕方、ソドムに着きました。『み使い』と表現が変わっています。アブラハムの親戚ロトが町の門に座っていてみ使いを迎えました。町の門に座る人とは町の責任者です。ロトはアブラハムと変わらない出迎えをしました。ところが夜、町中の男たちがロトの家に群がってきて、旅人を外へ出すよう要求し、暴行しようとしました。余りに激しく攻め立てるのでみ使いたちは人々の目をくらまし、ロトの家族と町に住んでいる関係者に呼びかけてソドムを脱出するようせき立てます。しかしロトは躊躇します。み使いは夜が明けるとロトと彼の妻と二人の娘の手を引いて連れ出します。しかし町を出たところでロトは尻込みします。み使いは山まで逃げるよう言いいますが、ロトは近くの小さな町までで勘弁してくれと言います。恐らくその町も滅びる予定だったのかも知れません。み使いはこう言います。『わたしはこの事でもあなたの願いをいれて、あなたの言うその町は滅ぼしません』。そして日が昇ると、天から火と硫黄が降ってソドムと周辺の町々は滅びました。ソドムには正しい人が10人もいませんでした。しかしロトと2人の娘は何とか助けられました。ひとえに『神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された』からです。

しぶしぶ救いに応答するロト

ロトは正しい人でした。新約聖書でも「悩める義人」と称されます。ソドムの責任者にまでなっていました。しかし町中の男たちが家に群がってきた時、旅人の代わりに2人の娘を差し出そうとしました。そして危機が目前にもかかわらず、躊躇し、尻込みし、山までは逃げられないからあの町で勘弁してくれと請うのです。しかし結局すぐに町から山に登っている。そしてその山はアブラハムが住んでいた山々とは反対側でした。ロトの妻は、み使いに『うしろをふりかえって見てはならない』と言われていたにもかかわらず、ふりかえって塩の柱になりました。2人の娘は子孫を残すすべは絶たれたと思い、父に酒を飲ませ酔わせ眠らせ、父によって子孫を残す結果となりました。ロトもロトの家族も、どこまでも後ろ向き。ソドム向き。神様への感謝も救出された喜びもありません。ロトははじめ、アブラハムと共に行動しました。財産もあった。しかしソドムに身を落としていきました。アブラハムに救出されたこともあります。しかしまたソドムに帰って行きました。そして今はじり貧。ソドムの滅びからは救い出されても、アブラハムの元に身を寄せることも、神様に向き直ることもありませんでした。

とりなしとは神様と神のかたちの、救いと祝福の共同作業です。神様は、アブラハムに限らず、私たちのとりなしを覚え、とりなす相手を何とか救おう、祝福しようと懸命に働いて下さいます。身近な人であっても、私たちの手の届かない遠くの人々や国々であっても。しかしその懸命な働きかけに、とりなす相手が自らすすんで応答しなければ、その人の救いや祝福にはなりません。助けの言葉に聞き従い、助けの手に手を差し出さなければ、それこそ救いようがない、手に負えないのです。私たちもとりなす相手の思想信条を強制的に変えたり、良かれと思うようには支配できません。ロトに対するアブラハムもそうでした。私たちにできることはとりなすことと、助けに応じる備えをいつもしておくこと。神様はギリギリのギリギリまで懸命に働いて下さいます。私たちもギリギリのギリギリまでとりなしてまいりましょう。

8月6日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第11章17節〜34節から、「一緒に集まることの意味」と題してメッセージです。

 


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