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霊の賜物を持ち寄る教会

コリント教会は食事を持ち寄る交わりで問題を起こしていました。お金持ちが先に食べて飲んで酔って、後から来る人がひもじい思いをし、何の集まりかわからなくなっていました。全体の利益にならないで損失となっていました。格差が生じ分争が起こりました。そして『霊の賜物』においても同じような問題が生じていました。霊の賜物に問題があったのではなく、霊の賜物に対する理解と用い方に問題がありました。ということで、8月13日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章1節〜11節から、「霊の賜物を持ち寄る教会」と題してメッセージでした。

聖霊によって一つになる

『そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない』とパウロ。「イエスは呪われよって読んだら呪ったことになるんですか?」と尋ねた人がありました。なりません。小説の中の犯罪者の台詞を読んだからと言って読んだ人が犯罪者として言ったことにはならないのと同じ。パウロはそちらよりもこちら『イエスは主である』に重きを置いています。単に読むだけではない本気の告白。キリストを信じて告白するのは自分の意思によります。しかし自分の意思だけではこの告白はできない。陰ながら目立たずとも忍耐強く、私たちに働きかけ導き励まし続けておられる聖霊(御霊、神の霊)あっての告白。私と聖霊とによる共同の告白なのです。私たちの傍らには、内には聖霊がおられる。ですから私たちお互いは聖霊によって一つ。そして同じ身分、同じ神の子とされたのです。

違いがあって豊かになる

『 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである』とパウロ。ここに三位一体の神様が記されます。三位一体なんてわかりにくい?私が3人いたとします。3人だけれども1つ。私の思いと考えで行動します。一人目はアジアで、二人目はアメリカで、三人目はアフリカで生活すると違いが出てきます。でもやっぱり私。私は常に3人分の営みと体験を得ています。父なる神様も主キリストも聖霊も同じ神様。1つです。でも立場や役割が違う。キリストは二千年前、30年ほど地上で生活され父なる神様と同じ思いと考えで行動され、その後聖霊が来られ父なる神様とキリストの思いと考えで今日まで働いておられる。同じだけれど違い、違うけれど1つ。そして豊かで大きな働きと交わりをなさっています。私たちはその三位一体の神様の同じ神の子。たくさんいても1つ。でも持ち場立場で違いがある。その違いは一個人にとどまらないより豊かで大きな利益や体験をもたらすのです。違いがあればあるほど豊かな1つになるのです。

持ち寄って全体の益になる

『各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである』とパウロ。第12章には様々な霊の賜物が記されますが、第14章で合わせて触れたいと思います。ここで言えるのは、霊の賜物は聖霊によって教会全体に与えられているもので、一個人に集中して与えられるものでも、人間的な努力で獲得した特殊能力でもないということです。ですから誰も自慢できないし、他と優劣をつけられないし、独走するものでもないのです。『全体の益になる』という言葉には「持ち寄る」という意味があります。コリント教会は食事同様、霊の賜物を持ち寄って分かち合うことをせず、優劣をつけたり、独走したり、権利を主張したりしていたのです。パウロは霊の賜物の用い方をこの後、記していきます。ということで、8月20日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第12章12節〜27節から、「霊の賜物でいたわり合う教会」と題してメッセージです。

私に、そして私たちにはどんな賜物があるでしょうか。賜物のない人はいません。神様と自分に問いかけ、用い方を考えてみて下さい。私たちが一つであることを覚えて。違いがあって豊かになれると信じて。教会全体や多くの隣人に大きくて豊かな益がもたらされることを願いながら。

 


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