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失敗から学ぶ

世の中には失敗学なるものがあります。主に技術やシステム分野の学問ですが広く応用できます。対照的に成功学という言葉もありますが、人や組織は成功が続くと慢心し、問題点を見えなくし、大きな失敗を招くリスクが高まります。しかし適度な失敗は慎重にさせ、問題点を見出させ、大きな失敗を回避できます。また成功だけだと差ほど進歩しないことでも、失敗を通して飛躍的に進歩することもあるとのこと。失敗しないようにしつつも失敗したなら謙虚に学ぶことが大切。ということで、9月3日(日)の礼拝は、創世記第20章1節〜18節から、「失敗から学ぶ」と題してメッセージでした。

失敗を繰り返すアブラハム

アブラハムは「信仰の父」「祝福の基」と呼ばれますが、彼にも失敗がありました。しかも結構致命的。しかも繰り返し。それが「私の妹は実は妻」事件です。最初のそれは彼の旅の始めに起こりました。故郷からカナンの地に来て飢饉があり、エジプトに下った時。アブラハムはパロにサラを妹だと言い、パロはサラを召し入れました。神様はこの件に介入されてサラを助け出されます。パロはたくさんのプレゼントと共にアブラハムたちを去らせました。アブラハムは恥をかき、サラを危険に陥れ、パウロとその家族にも迷惑をかけました。あれから四半世紀。今度はペリシテ人の地ゲラルにやってきました。その地の王アビメレクにまたもやサラを妹だと言います。アビメレクはサラを召し入れます。するとまたもや神様が介入され助け出されました。アビメレクはたくさんのプレゼントと自分の支配地域で自由に生活できる権利をアブラハムに与えました。パロもアビメレクも潔い。太っ腹。祝福する人。ではアブラハムは?言い訳に終始します。しかも衝撃的発言。『神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました』。エジプトやゲラルだけではなく、四半世紀、行く先々で「私の妹は実は妻」的なことをやっていたのか?「信仰の父」はどこへ行った?

失敗を祝服に変える神様

アブラハムはサラが異母妹で嘘はないと主張します。一夫多妻の当時、人妻を奪うために主人が殺されることもあり、自己保身と他の妻や子孫を残すために、ある妻を妹と偽ることがあったようです。しかしアブラハムの場合、妻はサラだけ(ハガルという代理母はありましたが)。彼の正妻。そして前の章でサラが子どもを産むと言われたばかり。つまりサラなくしてアブラハムの祝福はない。ちょっと考えればアブラハムの自己保身は破綻していることがわかるはず。しかも神様への信頼は?なぜ?私たちにもこういうことがないか。ダブルスタンダード。神様を信じ真実に生きていると思っている。でも自分が危険にさらされ、攻撃され、追い込まれると、自分を守るため、弁護するため、後先考えないで、身近な人を犠牲にし、周りに迷惑をかける。つい同じ反応、台詞、行動に出てしまう。同じことが繰り返されることで段々わかることがある。失敗を繰り返す中でやっと明らかになることもあるのです。そんなアブラハムでしたが、神様は彼を『預言者』としてアビメレク一家の祝福を祈らせます。アビメレク一家の女性たちの胎がアブラハムのせいで閉ざされていたからです。アブラハムは自分のやらかしたことの責任を見せられ、尻ぬぐいをすると共に、新しいつとめを与えられました。アビメレク一家に祝福が流れ始め、その流れは次の章のイサク誕生へつながっていきます。

失敗は私が深く変えられるチャンスです。神様は丁寧です。私たちをも見捨てないで、あきらめないで、失敗を通して学ばせ、失敗を繰り返すならなお自覚させ、祝福の基としての成長を期待し、新たに用い、そのつとめを全うさせて下さいます。私たちも自分をあきらめないで、放り出さないで、丁寧な神様に向いて聞いて従ってまいりましょう。

9月10日(日)の礼拝は、創世記第21章1節〜34節から、「人の考えは穴だらけ。しかしそれを満たすのは神」と題してメッセージです。

 


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