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わが生涯に一片の悔いなし

2024年2月4日(日)

2024年を迎えて一カ月が経ちました。1月1日の能登地震、また2日の飛行機事故と悲しいニュースは、「死」というものを意識させました。聖書には「主よ。今こそしもべを安らかに去らせてくださいます。」と告白したシメオンが登場します。2月4日の礼拝は、ルカの福音書2.21-40から「わが生涯に一片の悔いなし」と題してメッセージです。

待ち望む人生

 シメオンについて分かることは、正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望み、聖霊が彼の上におられた、ということです。神を信じるシメオンは、イスラエルをローマから解放してくれる救い主を長い間待ち望んでいました。現状に妥協するのでもなく、諦めるのでもなく、ひたすらに神様のみこころを来る日も来る日も祈り続けるシメオンに、神様は「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と答えてくださいます。シメオンの後の告白はこの長い忍耐の先に与えられました。

今こそ安らかに

赤ちゃんイエス様が律法の慣習にしたがって両親と神殿に来られたとき、聖霊はシメオンをイエス様のもとへ導きます。まだ何もできない赤ちゃんにもかかわらず、シメオンは聖霊によってその子が「万民の前に備えられた救い」であり、その救いは受難によるものであることを預言します。そのようにして主はイスラエルを慰めてくださると、万民を救ってくださることを赤ちゃんイエス様にシメオンは「見た」のです。シメオンは確信をもって、平安のうちに「今こそ安らかに去らせて」くださると言いました。救いを見た、だから安らかに生きることも死ぬこともできると言うことができたのです。

幼子のことを語る

女預言者アンナも高齢で、宮を離れず、断食と祈りをもって夜も昼も神に仕えていました。彼女もまた赤ちゃんイエス様に近づき、エルサレムの贖いを待ち望んでいた人々にイエス様のことを語ります。宮を離れず夜も昼も神に仕えていたアンナは聖書からイエス様を語ったのではないでしょうか。

私たちはすでに救いであるイエス様を知り、信じ、また読んでいます。安らかに生きることもでき、死ぬこともできる救いを受け取っていますか。

2月11日(日)の礼拝は、ルカの福音書2.41-52から「神と人とにいつくしまれ」と題してメッセージです。

積極的な心で

2024年1月28日(日)

出エジプト記25章は、なかなかイメージしにくく、それでいてその細かさに戸惑うかもしれません。ここからは「幕屋と幕屋のすべての備品」についての設計図が記され、出エジプト記でも多くのページが割かれています。それはなぜかというと、幕屋というものがまさに「神が彼らのただ中に住む」ことを表すものだからです。1月28日の礼拝は、出エジプト記25.1-40から「積極的な心で」と題してメッセージです。

まず、最初に作るもの

 「幕屋とそのすべての部品」の中でまず、作るように命じられているものは何でしょうか。それはアカシヤ材の箱と宥めのふたです。ふつうの家などの建築物と違って、建物からではありません。この箱と宥めのふたを幕屋の中心として話が進められていきます。これこそ幕屋で一番大切なもの。神様がただ中に住んでおられることを示す「さとしの板」が納められるからです。そして神様が民のただ中に住むのは、「語る」ためでした。私たちは神様が共におられると言うときに、神様の語られる声をどれほど意識しているでしょうか。神様は私たちのただ中にいて、語ってくださるのです!

机と燭台

次に、先ほどの箱より少し小さい机を作ります。ここには臨在のパンを備えます。神様がイスラエルの民をマナをもって養い続けてくださったことをおぼえるのです。燭台には七つのともしび皿があり、幕屋の中を照らします。中で仕える祭司は、神様ご自身が光であると同時に、神様に照らしていただかなければまっすぐ歩くこともできないことを教えられたのではないでしょうか。箱も、机も、燭台も金でおおわれており、神様を指し示しています。これらを通して神様に出会い、神様を礼拝していくのです。

積極的な心で

これらを作るのにはそれなりの材料が必要です。神様はそれらを進んで献げる心のある人から、受け取るよう命じています。イスラエルの民はあり余るほど献げますが、これらはエジプトを出るときに持って来たものでした。主は私たちがささげようもないものを求めてはおられない。この年、積極的な心で、与えられた思いに応じて神様にお仕えすることができますように。

2月4日(日)の礼拝は、ルカの福音書2.21-40から「わが生涯に一片の悔いなし」と題してメッセージです。

神様との契約

2024年1月21日(日)

契約というと、身近なものとしては雇用契約や賃貸契約があると思います。誰が誰とどのような条件で何をするのか、また不履行の場合の定めについて取り扱っています。この出エジプト記24章にも神様がイスラエルと契約を結んだことが記されています。1月21日の礼拝は、出エジプト記24.1-18から「神様との契約」と題してメッセージです。

神様と契約を結ぶ

 十戒、また契約の書にある定めを受けて、イスラエルの人たちは神様の声に聞き従い、神様の宝とされることに満場一致で同意しました。モーセは主のすべてのことばを書き記し、祭壇を築き、ささげ物をもって契約の手続きに入ります。このとき、祭壇とイスラエルの民に血が振りかけられました。この血は命を意味します。イスラエルの民が命を懸けて主の声に聞き従うことを意味すると同時に、神様もまたどんなことがあってもイスラエルをご自分の宝として扱うことを意味します。ご自分を「イスラエルの神」と呼び続けられることに神様の愛を感じずにはおれません。

契約を結んだイスラエルの人たち

では神様と契約を結んだイスラエルの人たちは何か変わったのでしょうか。急に聖人のように変えられたのでしょうか。このあとモーセは主に呼ばれて、四十日四十夜を山で過ごします。大切な幕屋に関することが25章から続くのですが、32章では一向に山から下りて来ないモーセにしびれをきらすイスラエルの民の姿が描かれます。契約を結んでも民は変わりませんでした。

契約を結ばれた神様

変わったもの、それは神様との交わりです。24章1節で神様はモーセらを呼びますが、モーセ以外近づくことはできないと言われます。19章でも神様に決して近づくことのできない様子が描かれていました。しかしこの契約の後、9節でモーセらは山にのぼり、神様を見ます。そして飲み食いしたけれども神様は手を下されなかったのです。これまで決して持つことのできなかった交わりが与えられました。決して近づくことができなかったのに神様を見たのです。今や私たちは動物の血ではなく、イエス様の血が振りかけられ、神様との交わりが与えられています。交わりを喜び、満たされて今週も過ごしましょう。

1月28日(日)の礼拝は、出エジプト記25.1-40から「積極的な心で」と題してメッセージです。

主が備えた場所

2024年1月14日(日)

本日は、故ドロシー・エレン・ホーア先生と故福田八重先生の追悼記念礼拝でした。両先生方の祈りとご奉仕のうちに、1949年にここ天授ヶ岡町に会堂が建てられてから今年で75年になります。主が備えてくださった場所に対する神様の言葉を聞きましょう。1月14日の礼拝は、出エジプト記23.20-33から「主が備えた場所」と題してメッセージです。

主が備えた場所

 イスラエルの人たちは「祭司の王国、聖なる国民」となるべく神様によって選ばれ、エジプトから救われましたが、その後好きな場所に行ったのではありません。主が備えた場所へと向かったのです。

天授ヶ岡教会も、主を礼拝し、福音をお伝えするべく天授ヶ岡に会堂が建てられ、今日まで守られてきました。主の守りと導きによって今があります。主が備えた場所だからと言って、困難や不安、疑いがなかったわけではありません。イスラエルもそうした中を通りました。しかし神様の憐れみと力はなお強く、イスラエルは辿り着き。領土を拡大します。主は真実なお方です。

その場所でなすべきこと

主が備えた場所に導く、そこでイスラエルの人たちに命じられたことは、アモリ人たちの神を拝んだり、仕えたり、風習にならったり、契約を結んではならないというものでした。それは、「祭司の王国、聖なる国民」を果たすため、また主の前に罪ある者とならないためです。厳しい言葉のようですが、神様は私たちの弱さをご存知で、私たちを失いたくなくて注意を与えているのです。

追い払われていくもの

そのとき、主が彼らを追い払う、と約束されます。これは昨今の戦争と考えてはいけません。そうではなく、私たちが主の御声に聞き従うとき、神なき世界の考えや声というものが追い払われていくのです。カナンでは豊作の祭りがありました。飢饉、命への不安があるからです。しかし神様は、主に仕えるならばパンと水を祝福する、と言われます。カナンに合わせる必要はありません。災害や健康、老後、さまざまな不安は尽きませんが、私たちは不安や心配、恐れではなく祝福を与えようとする神様がともにおられることを知っています。主を信じて喜び、不安が追い払われ、福音の領土の拡大を待ち望みましょう。

1月21日(日)の礼拝は、出エジプト記24.1-18から「神様との契約」と題してメッセージです。

心を知る

2024年1月7日(日)

今日は2024年最初の主日礼拝です。明日は成人の日、皆さまに、特に若い方々に神様の祝福をお祈りいたします。

十戒に続くこの「契約の書」と呼ばれる部分にはパッと見るとたくさんの決まり事が記されているように思いますが、一つ一つには神様の思いが込められています。今年も神様の思いを受け取っていきたいと思います。1月7日の礼拝は、出エジプト記23.1-19から「心を知る」と題してメッセージです。

元気を回復してほしい

 12節にある「七日目に働いてはならない」というのは、それ自体よりその理由が大切です。それは「女奴隷の子や寄留者が息をつくため」、別訳では「元気を回復するため」です。女奴隷の子どもにまで目を留めてくださるとはなんという配慮でしょうか!そしてこれは七年という期間にも当てはめられます。七年目には種を蒔いて収穫してはいけませんでした。その理由は、自然に実ったものを貧しい人や野生の動物が食べられるようにするためです。すべてを自分の所有と考えて、増産、安定を目指すのでなく、神様が必要を満たしてくださると信じて休み、子どもや貧しい方々を助けることが求められたのです。

感謝し信頼してほしい

14節以降の年に三度の祭りでは、神様の恵みを思い起こすとともに、ささげものを携えて礼拝することになっていました。礼拝では神様から恵みを受けることも大事ですが、それ以上に神様にささげることが大事です。なぜなら神様は奪うお方ではなく、それ以上に与えてくださっているお方だからです。これは神様への感謝と信頼がなければできることではありません。常に不安が襲うからです。だからこそ祭りを通して神様の恵みを思い起こしていくのです。

心を知る人でいてほしい

23章の前半には人との関わりについて書かれています。強い人や弱い人を偏り見て正しさを曲げないこと、憎んでいる人の家畜であっても倒れていたら起こすように言われています。かつて私たちは罪において訴えられ、罪の中に倒れていました。しかし神様は私たちの心のうめきを知り、ひとり子をも送ってくださいました。この神様の心を、かつての心を忘れてはいけません。

悲しい災害が起こりました。心に寄り添えることを考えていけますように。

1月14日(日)の礼拝は、出エジプト記23.20-33から「主が備えた場所」と題してメッセージです。

主に感謝することは良いことです

2023年12月31日(日)

一年最後の日を迎えました。今日は年末感謝礼拝です。詩篇92篇には「賛歌。安息日のための歌」と書かれていますが、詩篇90、91篇とバビロン捕囚というつながりの中で、ようやく解放されて礼拝できる喜びが歌われています。12月31日の礼拝は、詩篇92.1-16から「主に感謝することは良いことです」と題してメッセージです。

安息日は感謝がふさわしい

 ここには、朝も夜も、楽器で主に感謝をささげている姿が描かれ、主の御名をほめ歌う喜びと楽しさが伝わってくるようです。主がなさったことや御手のわざが賛美されています。

私たちはこの一年どういう気持ちで礼拝をおささげしたでしょうか。感謝をもって喜んで礼拝したときもあれば、不安や嘆きの中で主を見上げたこともあったと思います。

しかしこうして礼拝に集うことで、歴史を通して確かに働かれた神に出会い、兄弟姉妹の生活のただ中に証しされる主を仰ぎ見ます。そのときに、確かに今も生きておられ、守っていてくださる主に目を向けていくことができます。

主のみわざの大きさを認める

主に感謝ができないのは、もしかしたらあまりにも、狭く、近く、物事を見すぎているからかもしれません。主は永遠にいと高きところにおられるゆえに、主のみわざは大きく、御思いは深いです。もっと大きな祝福の計画のうちに主が進めておられても、「無思慮な者は知らず、愚か者にはこれが分かりません。」(9)

今は分からなくても、さまざまな出来事を神様は愛と祝福の内に持ち運んでおられることを信じましょう。

感謝を生い茂らせる

無思慮で愚か者とは対照的な人の姿が「正しい者」(12)として記されています。バビロン捕囚という背景からその人は植物に例えられ、再び主の家に植えられる祝福が描かれます。彼らは何もできないと思われる年老いたときでさえなお、実を実らせ、青々と生い茂ると言われます。もし信仰が何かできることならこうならないでしょう。しかし感謝することであれば、生い茂らせていくことができます。感謝を生い茂らせながら、この一年も終えられますように。

1月7日(日)の礼拝は、出エジプト記23.1-19から「心を知る」と題してメッセージです。

この方こそ主キリスト

2023年12月24日(日)

本日はクリスマス礼拝です。教会も飾り付けをしていつもよりウキウキ、ワクワクしますが、今日の聖書の舞台は夜です。真っ暗な夜。それは私たちの心を象徴しているようです。悲しく辛い出来事から夜のように感じたり、あるいは誰にも触れられたくない、聞かれたくない過去や傷が心の闇になっていたり。しかしそのような真っ暗な夜に神様の光が差した、これがクリスマスです。12月24日の礼拝は、ルカの福音書2.1-20から「この方こそ主キリスト」と題してメッセージです。

場所のないイエス様

 皇帝の命令で住民登録をすることになったヨセフとマリアはベツレヘムへと向かい、そこでイエス様はお生まれになります。しかしイエス様が生まれて寝かされたのは飼葉桶でした。その理由は「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」です。これは単に宿屋が満室だったというよりも、人の心の状態ではないでしょうか。すなわち、救い主イエス様をあなたの心にお迎えする場所はありますか?ということです。

イエス様をお迎えし、仕えた人たちは、平和とゆとりの内に過ごします。忙しく日常生活で慌ただしいとき、そこにイエス様の「場所」はあるでしょうか。

羊飼いに会われたイエス様

イエス様の誕生はまず羊飼いに知らされます。エサのために町に住むことも、神殿で過ごすことも、社会生活を共にすることもできない人たちなのに、です。それはイエス様に会うことができない人はいないということです。彼らは「恐れることはない、あなたがたのために救い主が生まれた」と聞きます。イエス様はあなたのために生まれました。信じられますか?羊飼いもそう思ったでしょう。しかし聖書は告げます。「あなたのために生まれた。あなたのために来た」と。

飼葉桶に寝かされたイエス様

イエス様が生まれて飼葉桶に寝かされたことはここに三度も書かれます。すべてのものを持ち、権力と権威の源であるお方が飼葉桶に寝かされたのは、紛れもなく私たちのためです。私たちと共にいるためにすべてを捨てて低くなられたのです。神であるお方が人として生まれ、場所もなく、飼葉桶に寝かされ、羊飼いに告げられた。それは私のためであると驚きと感動をもって信じます。

12月31日(日)の礼拝は、詩篇92.1-15から「主に感謝することは良いことです」と題してメッセージです。

神の深いあわれみ

2023年12月17日(日)

口がきけなくなっていたザカリヤでしたが、「その子の名はヨハネ」と書き記した瞬間、ものが言えるようになり神様を賛美しました。このザカリヤの預言は「ほむべきかな」で始まるので「ベネディクトゥス」(ラテン語)と呼ばれています。ここでザカリヤは神様の救いとヨハネの使命について語ります。12月17日の礼拝は、ルカの福音書1.67-80から「神の深いあわれみ」と題してメッセージです。

神が私のところへやってきた

 なぜ主は「ほむべきかな」なのでしょうか。それは「主がその御民を顧みて」くださったからです。この顧みるという言葉には「見る」という意味が込められていますが、実は同じ言葉が78節の「訪れ」にも使われています。神様はご自分の民を見ていてくださる。見て訪れてくださる、だからほむべきかなとザカリヤは賛美したのです。

待降節、私たちは何を待つかと言えば、神様が私を訪れてくださった出来事(クリスマス)、そして再び訪れてくださることを待つのです。

敵の手からの救い

神様はご自分の民を顧み、敵の手から救うとザカリヤは預言しました。敵とは何なのでしょうか。74節を見ると、「敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる」と言っています。つまり、敵は恐れなく主に仕えることを阻んでいるのです。

恐れなく、すべての日々において敬虔に、正しく主に仕えているか?と問われると顔を上げることもできない自分がいます。しかし、主に仕えるとは、特別な何かではなく、主と共に喜んで生きること。それを阻むような不安や恐れ、疑いや心配こそ、敵ではないでしょうか。主はここから救い出してくださるのです。

暗闇から平和の道へ

そしてヨハネこそ、このことを気付かせるために主に先立って遣わされたのです。私たちは教えられなければ、こうしたことも分からない暗闇の中にいます。しかし神の深いあわれみは、そんな私たちを訪れ、闇の中にいる私たちとそこから救い出してくださる主を照らし、神様と共に生きる平和の道を歩ませます。この私たちの姿を通して、共に平和の道を歩む方が起こされますように。

12月24日(日)の礼拝は、ルカの福音書2.1-20から「この方こそ主キリスト」と題してメッセージです。

静かな目撃者

2023年12月10日(日)

ザカリヤが神殿で御使いに会ったとき、ザカリヤは神殿で仕える祭司であり年寄りでありました。他の人達よりも多く聖書を学び、長い間たくさんの祈りをささげてきたことでしょうが、いざ神様から「男の子が生まれる」と告げられたとき、ザカリヤは口がきけなくなります。時が来れば実現する神の言葉を信じなかったからです。ザカリヤは話すことができないまま、いよいよその「時」を迎えたのが今日の場面です。12月10日の礼拝は、ルカの福音書1.57-66から「静かな目撃者」と題してメッセージです。

いいえを言ったエリサベツ

 エリサベツは超高齢でありながら無事男の子を出産します。八日目、慣習に従って割礼と命名をします。当時は父親の名前にちなんで名づけられるのが至極当然のことで、近所の人や親族はザカリヤとつけようとします。しかしエリサベツは答えます。「いいえ!名はヨハネとしなければなりません。」そして父親であるザカリヤも「その子の名はヨハネ」と言います。これまでの慣習よりも、周りの人の意見よりも、神に従う二人は、神様の言われたことを選びました。

いいえを言い表したザカリヤ

二人が受け入れたのはヨハネという名前だけではありません。御使いから語られていたヨハネの使命も受け止めたのです。祭司の家系に生まれたから祭司というしきたりにもいいえ、を言ったのです。ヨハネと名づけることで、生まれてきたヨハネを自分の思い通りにするのではなく、神様のこどもとして受け止めたということを言い表しているのです。

それは静かな時間で

ザカリヤがこのとき聖書の言葉を思い巡らしていたことは後の賛歌から伺えます。ザカリヤはあのとき信じなかったから罰として口がきけなくされたのでしょうか。他の人の声が全く聞こえない、神様との会話の中で、きっとザカリヤは「あなたの不安や戸惑いもわかっている。でもわたしのことを信じてほしい。わたしを見ていてほしい。あなたの祈りをおぼえている(ザカリヤ)。わたしは情け深いから(ヨハネ)。」こうしてザカリヤは神様のことばを受け止める時間と信仰を与えられたのです。罰ではなく、ザカリヤにこの神様の言葉だけを聞かせるためだったのです。主よ、私にもあなたの声を聞かせてください。

12月17日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.67-80から「神の深いあわれみ」と題してメッセージです。

神がわたしに目を留める

2023年12月3日(日)

今日は待降節第一週の礼拝です。英語ではアドベントですが、そこから派生した言葉にアドベンチャーがあります。予期せぬ出来事や冒険という意味です。今読んでいるエリサベツとマリアはまさに約二千年前、予期せぬ出来事に直面した人たちです。予期せぬ御使いとの出会い、予期せぬお告げにひどく戸惑い、考え込んでマリアですが、今日のところではエリサベツに幸いな人と呼ばれ、自分自身も幸いな者と言っています。それはなぜでしょう。12月3日の礼拝は、ルカの福音書1.38-56から「神が私に目を留める」と題してメッセージです。

語られたことが実現するから

 エリサベツは突然のマリアの訪問を喜び、聖霊に満たされてマリアを「私の主の母」と呼びます。そしてまだお腹の大きくなっていないマリアに向かって「信じている人は幸いです。神様が語られたことは必ず実現するからです」と言いました。エリサベツは自分の理解や見ていることを越えた神様のわざをマリアに見ました。マリアは語られたことが実現すると信じていると分かったのです。

神様は日々に、聖書を通し、人の言葉を通し、私たちに語りかけてくださっています。神様は必ず実現する言葉として私たちに語っていてくださるのです。

目を留めてくださったから

それを受けてマリアは主に賛美をささげます。それはこんな卑しいはしためにも神様が目を留めてくださったからです。私たちが買い物に行ってやはり目を留めるものがあります。神様は私たちをまるで他の人などいないかのように私を、あなたを見つめます。神様の目は私に、あなたに注がれます。どこにでもいそうな平凡な女の子であるマリアに神様は目を留め、大きなことをしてくださった、だから幸せだと賛美するのです。

マリアは自分の小ささを知っていました。同時にそれは神様がどれほど偉大なお方であるかを知ったのです。神様はご自身の偉大さを私たちに教え、私たちは自分が小さい者にしか過ぎないことを知っていくのです。

主はいつまでもあわれみを忘れておられない

マリアはこの出来事を自分のことだけだと思わず、アブラハムとその子孫に対するあわれみだと受け取りました。この世界大のわざのために神様は私たちに目を留められました。へりくだるアドベントとなりますように。

12月10日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.57-66から「静かな目撃者」と題してメッセージです。


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