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人を本当に汚すもの

「宗教」という言葉を聞いてどんな印象を抱くでしょうか?明治維新前後、外交で使われる「religion」の訳語として仏教の「宗教」という言葉が使われるようになりました。今では概ね「人間や自然界の力を越える存在(時に神と表現する)を中心とする観念で、その観念に基づく教義、儀礼、施設、組織をそなえた社会集団」と理解されているのではないでしょうか。これまでマルコの福音書からイエス様を見てきました。そしてイエス様に異を唱え、反対し、イエス様を憎む人々も見てきました。パリサイ人や律法学者です。彼らも同じ聖書と神様を信じる人たち。民衆の教師。でもイエス様と彼らは全然違う。なんで?ということで、7月18日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.17-23から、「人を本当に汚すもの」と題してメッセージです。

外側が問題ではない 7.17-19

パリサイ人や律法学者は、外出したときや食事のとき、汚(けが)れたものに触れなかったか、律法に違反していないか、細心の注意を払いました。食材にも厳格なルールがありました。生活の隅々にまで、体や手を洗う「きよめ」の儀式を怠りませんでした。だからイエス様の弟子たちが手を洗わず食事をしているのを批難した。そのイエス様の返答が『みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです』でした。しかし、彼らにはピンとこなかった。さらに弟子たちもピンとこなかった。それでイエス様に聞き直したやりとりが17-19節。私という存在は霊(内側)と体(外側)で構成されています。どちらがコアかというと霊。体は先に朽ちますが、霊は残るからです。パリサイ人や律法学者がこだわったのは外側が「きれい」かどうかです。清潔も大事です。しかし体をきれいにすることや体を維持する食事は、霊をどうのこうのするものではない。その人が「汚れ」ているか「きよい」かとは別問題なのです。とはいえ体は大事です。神様は私たちの体の維持のために、豊かな自然を創造してくださったのです。当時、今のような合成保存料や添加物、環境汚染はありませんでした。ですから自然の恵みを感謝し、土地のもの、旬のものをしっかりいただけばよかった。「汚れ」は外側(食材や手を洗ったか、触れたかなど)の問題ではなく、実は内側の問題だったのです。

内側が問題 7.20-23

ここにはスゴイ言葉が並んでいます。これらは肛門から出てくるようなものじゃありません。体がきよいか汚(けが)れているか、はたまたきれいか汚(よご)れているかとは違う話です。本当に問題なのは私たちの霊。そして霊と体をつなぐ心の問題。いろんな言葉が並んでいますが、実は同じようなことを示しています。それは「奪う」ということです。神様がそれぞれに相応しく与えられているものを、手前勝手に奪う、手段を選ばず奪う、わきまえず奪う。奪うことで奪われた者が傷つく。奪われた者たちの関係やコミュニティが破壊される。神様はそれぞれに相応しいピッタリなものを与えたい。しかし奪う者は、神様に求めないで、神様から受けとらないで、人から奪い続けるのです。しかし満足がない。際限がない。なぜか?それは自分のものじゃないからです。胃袋ではなく霊が満たされない。すると心に人から奪う欲求が溢れ、やがて体を使う行動となる。それが人を汚すのです。気枯れるだけでなく怪我させる!体も心も霊も傷つけるのです。レイプは「魂の殺人」とまで言うではないですか。イエス様の言葉はパリサイ人や律法学者とのやりとりに端を発しています。彼らは「俺たちはそんな人間じゃない!」と激怒するかもしれません。しかし彼らは人の外側にレッテルを貼り、社会を分断し、自分たちはお高くとまり、人を汚し(怪我させ)たままで、平気だったのです。今のコロナ禍、感染症が確かに大きな問題です。しかしそれに勝るとも劣らず、人を本当に傷つけるものが、この機に乗じて噴出していないでしょうか。

パリサイ人や律法学者がなぜこうもイエス様と違うのか?内側にあるべきものがないから。そしてイエス様を拒否ってるから。「religion」の元々の意味は「再びつながる」。神様につながりなおす。人となってくださった神、イエス様につながりなおす。そして人と人とがつながりなおす。イエス様こそが私たちの霊的満足を満たすお方。気良くできるお方。回復と成長をもたらすお方。誤解を恐れず言うなら、宗教の要素である教義、儀礼、施設、組織はなくてもいい(あってもいいけどなくてもいい)。でも全ての人に「イエス様につながる」というreligionは必要。イエス様は喜んで私たちの心になってくださる。奪うのではなく与える人へ。汚すのではなく癒す人へ。分断ではなくつなげる人へ。私たちに相応しくピッタリな主のわざを分かち合えるようになるのです。

7月25日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.13-14から、「新しい共同体~聖霊が保証」と題してメッセージです。

新しい共同体~キリストにあって

7月11日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.7-12から、「新しい共同体~キリストにあって」と題してメッセージです。1.1-14は、3つの「ほめたたえる」で区切れます。1つめの区切りは父なる神と私たち。2つめはキリストと私たち。3つめは聖霊と私たち、という内容。教会とは何か?それは三位一体の神様と私たちのコミュニケーション。そしてどの区切りにも『キリストにあって』『この方(キリスト)にあって』『愛するかた(キリスト)にあって』などの言葉が使われている。「イエス様の中にあって」が貫いている。「父なる神様と私たち」に続く、「イエス様と私たち」を見てまいりましょう。

イエス様の中にあって、買い戻された私たち 1.7

『このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです』。まずはイエス様にあって、「かつての私たち」に与えられた『神の豊かな恵み(富)』です。『贖い』は「買い戻す」という言葉。当時、捕虜になった人を国が代価を払って買い戻したり、身売りした人を親戚や地域の人々が代価を払って買い戻すということがありました。私たちはかつて神様に向かず聞かず従わず『背きの罪(的外れ)』状態にありました。それを聖書では「罪の奴隷」と表現します。そこから神の国へ、神の家族へ買い戻す。その代価は?イエス様の血。聖書で血は命と同じ扱いです。人類の命を取り戻すためのイエス様の命。圧倒的な神の豊かな恵み!この恵みを自分のものとして受けとった者たちが『罪の赦し』を受ける。それはイエス様の命の中に入っている状態。それが私たち教会なのです。

イエス様の中にあって、奥義を解き明かす私たち 1.8-10

次にイエス様にあって、「今の私たち」に与えられた『神の豊かな恵み』です。それが『あらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせて』くださることです。『奥義』は外側から眺めているだけではわかりません。中に入ってこそわかるもの。神の国の奥義は、イエス様がこの世界に来られてから解き明かされ始められました。その全体像は『天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです』。イエス様は復活後、40日にして天に帰られました。イエス様は天。では奥義を引き続き分かち合っていくのは誰か?天と地をどうやって1つにするのか?イエス様の命の中に入った私たち教会が引き継いでいる!奥義を分かち合いながら天と地をつなぐために、天のイエス様と地の私たちというフォーメーションが必要なのです。

イエス様の中にあって、御国を受け継ぐ私たち 1.11

最後にイエス様にあって、「将来の私たち」に与えられた『神の豊かな恵み』です。それが『御国を受け継ぐ者』となることです。前回、私たちは神様の養子となる、というお話しでした。イエス様の中にある私たちです。だから相続も同じ。その相続が『御国』。『御国』は「神の国」と同じ。イエス様は宣教を開始されるとき『時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』と言われました。『悔い改めて』とは神様に的を戻すことです。『神の豊かな恵み』である『罪の赦し』を受けるために、私たちの側がすることです。そして『時が満ち』て天と地を一つにする計画が始まった。神の国の奥義が段々解き明かされ、今まで目に見えなかったその姿が段々現れ、ついには完全な目に見える新しい天と地となって姿を現す。1.3『天上にある全ての霊的祝福』が形を成す。それが御国!『みこころによる計画のままに行う方』『あらかじめそのように定められていた』とあります。前回も父なる神様の『みこころの良しとするところ』や『あらかじめ定めて』がありました。イエス様も私たちのために、喜んで地上に飛び込み、あらかじめ計画された救いと祝福の実行を『時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』という宣言でスタートされ、命を惜しむことなく差し出してくださった!それは、その命を受けとり、奥義を分かち合う私たちと御国を共有したいから。独り占めじゃない。全て大放出!栄光を全てにあふれさせたいからなのです。

1.12『それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです』。胸躍る表現です。実は私たちも、前から父なる神様もイエス様も知っているはずなのです。なぜならそこが私たちの創出された所であり、帰るべき懐だからです。新しい共同体。それはイエス様の中にある者たち。私たちは過去から将来に向かって、地から天に向かって、イエス様の中にあって回復され、伸びやかに成長し、あふれる栄光に至るのです。

7月18日(日)の礼拝は、マルコの福音書7.17-23から、「人を本当に汚すもの」と題してメッセージです。

新しい共同体~神が父に

みなさんは「教会」と聞いて何をイメージされますか?日曜日に礼拝が行われている会堂ですか。「教会に行く」なんて表現もしませんか。教会は会堂で、私や私の生活とは別物ですか。エペソ人への手紙は教会とは何か?を教えてくれます。ということで7月4日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.1-6から、「新しい共同体~神が父に」と題してメッセージです。

この手紙はパウロが差出人。受取人はエペソ教会です。パウロは挨拶で自分を『神のみこころによるキリスト・イエスの使徒』、エペソ教会を『キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たち』と記します。しかしその締めは『私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように』と表現がします。神→キリスト・イエス→使徒。キリスト・イエス→聖徒。そして父なる神&主イエス・キリスト。前者二つは縦(立場や役割)の関係、後者は横(家族や人間的な)の関係が強調されていないでしょうか。いずれにしても教会は、会堂ではなく関係なのではないか?前置きが長くなりましたが、今回は父なる神様と私たちの関係についてです。

祝福するために

『私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました』。『ほめたたえられますように』と『祝福してくださいました』は同じ言葉。旧約聖書でも「ほめたたえる」と「祝福する」は同じ言葉。神様が私たちを祝福する。私たちはそれに感謝し賛美する。祝福と賛美のコミュニケーション。それが教会。『すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです』。『世界の基が据えられる前から…私たちを選び』って?選ばれていない人もいるのか?自分の意志は関係ないのか?今の時代、スパコンやAIで様々な予測ができるようになりました。神様の予知は比較になりません。全知です。しかも私たち次第でどんなふうに変化するかも知っておられます。私たちは父なる神様に愛されこの世に生み出されました。選ばれていない人はいません。そして天上の霊的祝福は上から下へ(縦)、あふれるほどに注がれている。そして私たちには自由意志が与えられている。私がその意志を働かせ、自らその祝福を受けとるとき、『御前に聖なる、傷のない者』になるのです。祝福と賛美。それは選びと応答というコミュニケーションでもあるのです。

わが子とするために

『神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました』。『みこころの良しとするところにしたがって』とは「そうしたいからそうするんだ!」ということです。『ご自分の子にしようと』とは「養子縁組にしようと」ということ。私たち人間は「神のかたち」として創造されました。神ではない被造物。でも、さらに『ご自分の子』にしたい!人形師が作った人形をわが子とする、博士が作ったロボットをわが子とする…そんなお話しやマンガがたくさんあります。人間でさえ、造ったものをわが子とするほど愛したい。神様の愛は比較になりません。『愛をもってあらかじめ定めて』と端から愛しておられたし、ますます愛してくださっている。『天上にある全ての霊的祝福』だけでも想像がつかない破格のプレゼントなのに、神の子にしたいとはどんだけ!私が意志を働かせ、自らこの愛を受けとるとき、イエス様と同じ権利を有する養子となるのです。イエス様と同じ扱い(横)。祝福と賛美。選びと応答。父と子というコミュニケーションが始まるのです。

栄光が満ちるために

『それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです』。『恵みの栄光』って何?『天上にある全ての霊的祝福』も『ご自分の子』にされるのも『恵みの栄光』も、スケールが大きすぎて一言では言えないし、一発で理解できるものでもありません。が、あえて言うなら、イエス様が今、天上で持っておられる栄光です。天地万物の創造者キリストとしての栄光だけではなく、イエス様として受難と救いをなし遂げ、天に凱旋されていただかれた栄光です。その栄光をイエス様だけではなく私たちにも!なんちゅう太っ腹!私たちみんなが持つことで、栄光が満ちあふれるわけです。上から下へ、横から横へ、隅から隅まで満ちあふれる!するとどうですか。天と地が豊かに一つにならないですか?アダムとエバが神様に向かず聞かず従わず、天と地は断絶しました。そして豊かさを失い続けてきた。しかしそれをつなぎ直し満たし直すのが私たち教会なのです。

世の中では、「神は死んだ」「父性や母性は存在しない」と言われることもあります。そして従来の家族のかたちに傷ついている人もあります。そして信頼や愛や家族のかたちを模索しています。しかし父なる神様はおられます。私たちが神を想像したのではなく、神が私たちを創造されました。神様は私たちを愛し祝福し通したい。私たちはそれを受けとり、喜び感謝し分かち合う。それが教会。会堂ではなくコミュニケーション。宗教的な集まり以上に、誰にとっても必要なコミュニケーションが、ここから始まるのです。

7月11日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.7-12から、「新しい共同体~キリストにあって」と題してメッセージです。

主イエスを信じなさい

6月27日(日)の礼拝は使徒の働き16.11-34から「主イエスを信じなさい」という題でメッセージですが、ペンテコステ礼拝とその次の週にもこの辺りからメッセージしました。ほぼ同じ箇所から3回目のメッセージ。小説やドラマや映画でもそうですが、神の物語にも、大きな流れの中で、様々な人々が登場し、人間模様が描かれます。ですから同じ箇所でも、いろんな視点で語りかけてくるもの、見えてくるもの、教えられることがあります。「聖霊様の導き」「どん底からの賛美」と続いて、今回は2人(2家族)の救いに焦点を当てて味わうことといたしましょう。

ここにも救われる人々がいる

パウロたちは、アジアからヨーロッパに渡り、ピリピという町で宣教を始めました。町にユダヤ人が10人以上いれば「会堂」を建てると言われるほどでした。会堂がない場合、ユダヤ人は川辺などに祈るため集まっていました。パウロは会堂があれば、まず安息日に会堂で福音を伝えようとしました。しかしピリピには会堂がなかったので川辺へと出かけました。すると女性たちが集まってきました。その中にティアティラ市の紫布商人リディアという『神を敬う人』がいました。ティアティラ市はアジアにある町で商業や工業が盛ん。紫布は特産品。リディアは実業家でヨーロッパへ市場進出していました。そんな彼女がパウロの話を聞いてイエス様を信じ、家族みんなで洗礼を受けました。ここで興味深いのは、パウロの話を聞いた女性全員がイエス様を信じたのではないということ。『主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた』。じゃあ、他の人の心は閉じられたのか?リディアに意志はなかったのか?旧約聖書は、エジプトのファラオの心を主が頑なにされたと共に、彼自身が心を硬くしたとも記します。閉&閉。ゆえに十の災いが現実となった。新約聖書のリディアは逆。彼女は既に『神を敬う』心があったのです。開&開。ゆえに救いが現実になった。主からの語りかけと共に、私たち自身がそれに応答するかしないかで実際の変化が起こる。私たちがするべきことは、パウロのようにとにかく福音を伝えること。そしてリディアのように福音に応答すること、ではないでしょうか。

ここにも探し出すべき人々がいる

パウロたちのピリピ宣教は、幸先の良いスタートに思えました。しかし急転直下、パウロとシラスが、いわれのないことで投獄されることになりました。しかし大地震をきっかけに、看守とその家族がイエス様を信じて洗礼を受けることとなりました。パウロたちはアジアにいるとき幻を見て『ただちにマケドニアに渡ることに』しました。『渡ることにした』には、「探し出す」という意味の言葉が使われています。探し出すべき人はリディアだけではありませんでした。看守も探し出すべき1人だったのです。リディアと看守の仕事や立場は対照的にも見えます。どこにも接点はありません。パウロたちも祈り場には行っても、獄に行く計画はなかったでしょう。でも主はそこにも福音を伝えたかったのです。私たちは、聖霊様の導きがあるからといって、全てが見通せるわけではありません。聖霊様はあらゆる情報を鑑みて、私たちそれぞれを導かれます。ですから私たちには思い通りにならないと思えることもあるし、思わないところに道が開けることもある。目の前の人がその時救われないこともあれば、何年もしてからどこかで救われていることもある。私たちはとにかく福音を伝えつつ、常に聖霊様の導きに柔らかく応答していく時、探し出すべき人々、救われる人々に出会うことができるのです。

看守は救われた後も看守として働き続けたでしょう。でも今までとは違う。彼の内には喜びがある。愛がある。聖霊様がおられる。獄から福音宣教が始まる。救いの恵みが湧き上がる。それは聖書に記されない物語。復活の朝、看守だった人からその話が聞けることを楽しみにしています。あなたにも救いの物語がきっとある。あなたが主を信頼し、主に応答して動き出すとき、新たな救いの物語が生まれるのです。

7月4日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙1.1-6から、「新しい共同体~神が父に」と題してメッセージです。

愛する心

心が硬い、柔らかい。心は見えたり触れたりできないはずです。でも見てわかる。表現や動作に現れる。イヤなことをしなければならないとき、苦手な人と会わなければならないとき、嘘をついているとき、激しく口撃されているとき、心をクローズ!自分が自分じゃないみたい。逆に好きなことをしているとき、おいしいものを食べているとき、自分を認めてくれる人と一緒のとき、心がオープン!何の力みも壁もなく自分らしさ満開。そんなことないでしょうか。イエス様の弟子たちも度々心がカッチカチになりました。でももっとガッチガチの人がいました。ということで6月20日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.53-7.15から、「愛する心」と題してメッセージでした。

愛さない心が支配していた

7.1『さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった』。律法学者は元々エルサレム神殿の祭司。祭司から律法を教える人々が起こります。いくつかの派があって最も多かったのがパリサイ派。「分離する」という意味があり「汚れ(けがれ)」からの分離に厳格でした。やがて地方の会堂礼拝が行われるようになり、律法を人々に教えるため、パリサイ派律法学者の元で学び派遣されたのがパリサイ人。今回、中央からパリサイ人の上司がやって来た、という感じ。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか』と彼らはイエス様に質問します。しかしイエス様は『(あなたがたは)見事に神の戒め(律法)をないがしろにしている』と言われます。律法学者が律法をないがしろ?彼らは『昔の人の言い伝え』を遵守し、汚れに対してチョー潔癖でした。しかし手を洗い体をきよめるのは元々祭司のつとめのため。しかし彼らは律法を拡大解釈し庶民に押しつけるようになりました。そういう『昔の人の言い伝え』は600ほどにも上り、庶民は『堅く守って』いました。この言葉は「支配されていた」という言葉です。イエス様は『コルバン』という献げものを例に挙げます。親が老いると子が養います。しかし親が必要な物でも「これは神への献げものだ」と誓うと親に渡す必要はなくなる、というもの。当時、親子げんかをしたとき、子が腹いせにこの誓いを使ったようです。これは誓いゆえに撤回できません。では『神の戒め』は何と言っているか?『あなたの父と母を敬え』『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』。けんかして親を困らせている場合じゃねー!律法学者は「神への献げもの」というもっともらしい理由をつけて、『神の戒め』を否定していました。そして親子関係をないがしろにしても平気でした。彼らの愛さない心が、『神の戒め』を否定し、社会全体をも支配していたのです。

愛する心が支配を取り戻す

6.56『村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒された』。律法学者たちはそれが我慢なりませんでした。人々が元気になっても喜ばず、イエス様を批難するばかり。なぜならこういう人たちにふれると汚れ(けがれ)るからです。手や体を洗わないどころか、汚れにあえてさわるヤバいやつ!というわけです。しかも安息日にも癒している。それは医療行為。安息日に仕事をして、社会秩序を壊すヤバいやつ!というわけです。「けがれ」は「きたない」とは違うし「きよい」は「きれい」とも違います。汚れは「気枯れ」、きよいは「気良い」とも書きます。その人にあるべき命が枯れかけているなら助けたい。命が満ちた状態に戻してあげたい。それがイエス様。手や体を洗うのは清潔面では大切ですが、その人のうちに命が満ちているかいないかとは別問題。しかし律法学者は外側だけをきれいにし、自分を誇り、社会的弱者を見下し、指一本触れようとしなかった。もっともらしい理由をつけて!それは彼らがきよいからではなく、彼らも気枯れていく存在でしかないからです。なのに!「神の戒め」と同じように「神の子」も否定する!でもイエス様は命があふれている。あふれた命を私たちに注いでくださる。さわって気枯れるのではなく圧倒的に気良くできる。上からではなく同じ目線になって。人に押しつけるのではなく優しく触れて。善し悪しではなくそのままを認めて。「君は君で素晴らしい」。愛する心が私を生きかえらせる。我を取り戻させる。私らしく活きられるのです。

愛さない心の支配は、現代の社会や文化や伝統の中にも、また身近な学校や職場や家族関係にも姿形を変えて潜んでいます。「形骸化する」と言いますが、本来の意味が失われ、大事な中身がなくなり、外側だけ維持しようとする。それが当たり前になり、ついてこられない人や異を唱える人は排除されていく。イエス様は、そんなガッチガチでカッラカラになりやすい私たちの心に、愛を満たすために来られました。その愛の心は行動となってほとばしり出る。それが「神の子イエス・キリストの福音の支配」なのです。

6月27日(日)の礼拝は、使徒の働き16.16-34から、「主イエスを信じなさい」と題してメッセージです。

幸い。揺るがぬ恩寵のうちに

6月13日(日)の礼拝は、詩篇30.1-12から「幸い。揺るがぬ恩寵のうちに」という題でメッセージです。表題は『賛歌。家をささげる歌。ダビデによる』。新築の家を主に感謝する歌か?内容は新築の家とは関係なさそうです。表題は、詩篇がまとめられる中でつけられていったようです。今回の表題にはどんな背景があるのか?紀元前165年、ギリシャの配下にあった神殿をユダヤ人が奪還し、改めて主に献げたときにこの歌を賛美したようです。ソロモンによって第一神殿が建てられますが、やがて破壊されます。ゼルバベルによって第二神殿が再建されますが、やがてギリシャの手に落ちていた。そして回復した。神殿に限らず、イスラエルの歴史は危機と回復の連続です。そういう危機からの回復を感謝する歌。それが30篇なのです。

私たちにも山や谷はある 30.1-7

ここから、ダビデには敵や病み患ったこと、死に直面したことがあったことがわかります。神の御怒りを受けていると感じたこともありました。小さな頃から主を信じ、忠実であろうとしたダビデ。そんな彼にも危機的な「谷」は幾度もありました。しかし「山」と思えることもありました。平穏なとき、富み栄えるときを迎えたことがわかります。しかしそんな時、彼は『私は決して揺るがされない』と思いました。順風満帆の時、自分が無敵になったような感覚です。自分がそびえ立つ山のようになった感覚です。「健康傲慢」という言葉を聞いたことがあります。「自分がこれだけ努力しているから健康だ」と思い、健康でない人を「努力が足りない」とさばいてしまうことです。しかしどんなに健康な人も衰えます。災害や事故で不自由になることもあります。生まれつき障害や難病を背負っている人もいます。私たちは、山であれば天狗になったり、谷であれば不平をならしたりしていないでしょうか。ダビデは「山」傲慢になっているとき、主の御顔が見えなくなるのを感じました。主に向いて聞いて従っていたはずが、いつの間にか自分を見ていたからです。彼は『おじ惑いました』。自分は山でも何でもない。その心許ない感覚は、敵や病や死の恐れよりも大きいものでした。主の恩寵のうちにあってこその自分だと気づいたのです。

私たちは揺るがぬ恩寵のうちに 30.5,7

ここに『恩寵』という言葉があります。「喜び」「好意」「願い」「いつくしみ」といった意味もあります。この言葉を思い巡らすに、『恵み』という言葉が思い浮かびます。主の契約に基づく愛を現す言葉。主の私たちへの愛は、とても理性的な行動。冷静な契約履行。と共に、愛は感情でもあり、温かい手や優しいまなざしがあります。こちらの面を現すのが『恩寵』ではないか?私には子や孫がいますが、今時はSNSで彼らの写真を送ってくれます。それを見ている自分の表情にハッとさせられます。どんなに眉間にしわを寄せて仕事をしていても、写真を見るとニッコリ!彼らが愛おしくてたまらない!それは彼らが大きくなっても変わらない!かつて、そんな子どもの膨大な写真データを失ったことがありました。何とか復旧しようと手を尽くしましたがかなわず、悲しみました。実際に本人たちを失ったらどんなに嘆き悲しむことか。主の私たちへの恩寵はなおさらです。私たち1人1人を丹精込めて創造し、養い、罪と滅びから救い出し、永遠に共にいたいと願っておられます。『私が墓(滅びの穴)に下っても私の血に何の益があるでしょうか』とダビデは記しますが、そんなこと主は痛いほどわかっている!私たちを決して失いたくない!だから十字架にかかって、私たちの身代わりに、滅びの穴に下る苦しみを味わわれた。私たちに救いを用意するために。私たちの益だけを考えておられる。このあふれるばかりの恩寵は、決して揺るがないのです。

ダビデは10節から再び激しく主を求めます。これぞ彼本来の姿。そして私たちの姿。山であろうが谷であろうが、主の揺るがぬ恩寵のうちに。主の恩寵が私を回復する。嘆きが踊りに。粗布が喜びに。そして私のうちから『ほめ歌』が湧き上がる。私たちは、嘆き悲しむ隣人の痛みに寄り添い、自分だけでなく隣人の益のためにも、主を賛美しつつ、主の恩寵を分かち合ってまいりましょう。主は、主と同じ栄光の復活と新天新地に、共々に与らせてくださいます。回復にまさる、大いなる幸いではないでしょうか。

6月20日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.53-7.15から、「愛する心」と題してメッセージです。

幸い。力を与える主の声

危機にあるとき、状況が悪化する度に、リーダーに力強いメッセージが求められます。そしてメッセージのあるなしや、その内容の善し悪しを評価します。またリーダーの言葉を求めつつも、私たちは様々な情報を元に主張し合い、振り子が振れるような行動に出ることもあります。私たちは危機かそうでないかにかかわらず、日々どんな言葉や情報を根拠に、支えに、励みに生活しているでしょうか。ある意味、状況や時の声に振りまわされない生き方や生き様が問われているのではないでしょうか。時の声に聞くなと言っているのではありません。時の声を聞き分け、自分をわきまえることが、何より大切ではないでしょうか。ということで、6月6日(日)の礼拝は、詩篇29.1-11から、「幸い。力を与える主の声」と題してメッセージです。

私たちは力をいただいている 29.1-2,11

『力ある者の子らよ』とあります。新改訳2017の欄外には「神の子ら」とあります。御使いを意味するという解釈もありますが、人間と解釈して差し支えありません。創世記で、神様に向いて聞いて従うセツの子孫が『神の子ら』だとお話ししました。そのセツの子どもの名前がエノシュでした。この名前には「弱い」という意味がありました。自分は弱い。神様なしには生きていけない。だから神様に向いて聞いて従う。そういう謙遜な自覚があった。それが『神の子ら』。しかしダビデはそういう「神の子ら」に『力ある者の子らよ』と呼びかけています。私たちは「こんな小さな者ですが」「こんな弱い者を」「こんな取るに足りない者を」と祈ることがあります。その謙遜な自覚も大切です。しかしそれだけでは半分。弱い私たちなのですが、実は力が与えられているのです。

主の声に力がある 29.3-9

『主の声は』と何度も出てきます。ここで描かれるのは驚異の自然活動です。最近は森林破壊が進んで、巨木も稀になっていますが、当時まだまだ巨木がたくさんありました。また『若い野牛』は、英欽定訳で「ユニコーン」。絶滅した巨大な動物とも考えられます。何を言いたいかというと、巨大な森林や動物でさえ、簡単にひっくり返る自然界の力がいかに大きいか、延いてはその自然界を創造された主の声の力がいかに大きいか、ということです。かつて江戸の人々は、繰り返される地震・噴火・大火を教訓に、家・町・組織・生活様式に至るまで再デザインし、シンプルライフの町民文化を開花させました。その知恵と力の変換力には脱帽です。主の声にこそ知恵と力がある。その声に従う私たちにも知恵と力の変換力がある!8節の『揺さぶる』は「生み出す」という言葉。主の声に従う私たちには生み出す力があるのです。

主の声に従う者に救いがある 29.10-11

『主は大洪水の前から御座についておられる』。神様に向いて聞いて従っていたはずのセツの子孫が、神様に向かず聞かず従わないカインの子孫と混じり合い『地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちて』いました。『暴虐が満ちていた』は「破滅していた」です。大洪水が破滅をもたらしたのではありません。人間がすでに世界を破滅させていたのです。主は何とか人も世界も救おうと大洪水と箱舟をセットで用意されたのです。大洪水だけならなんとも恐ろしい強大な力。でも箱舟があった。箱舟は沈まなかった。そして箱舟は主の指示で、ノアが造ったのです。知恵と力の救いへの変換力!しかし主の声に従ったのはノアの家族のみ。今の時代はどうでしょうか?

イエス様こそ人間の弱さを身にまとわれた、真の神の子。そして自然界の創造者にして支配者。イエス様は十字架によって全人類の救いを完成されました。なんという知恵と力の変換力!荒波にもまれる弟子たちに『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と手を差し伸べられたイエス様は、私たちにも同じように声をかけ、手を差し伸べておられます。今の世界は水ではなく、火で終わりを迎えます。しかしイエス様の声に従えば、新しい復活の体と共に、新しい天と地にしっかり立つことができる!これまたなんという知恵と力の変換力!私たちは主の声に従い続け、状況がどうであれ、手分けし協力して、主の力を身近な人の平安と祝福のために用いてまいりましょう。

6月13日(日)の礼拝は、詩篇30.1-12から、「幸い。揺るがぬ恩寵のうちに」と題してメッセージです。

どん底からの賛美

私たちは賛美が大好きです。イースターやクリスマスでは聖歌隊が、カフェスタイル礼拝では有志が賛美します。愛唱賛美をアンケートするとたくさんの賛美が集まります。それも毎週の礼拝で賛美します。でもコロナ禍で共に賛美することが難しくなりました。共に賛美することがいかに恵みかをあらためて思います。とはいえ、手をこまねいているわけではありません。賛美について聖書から学び、リアルで思いっきり賛美できる日に備えてまいりましょう。5月30日の礼拝は前回の続き、使徒の働き16.11-40から、「どん底からの賛美」と題してメッセージです。

どこでも臨在 16.11-24

パウロの宣教チームはマケドニアの主要都市ピリピにやって来ました。そして紫布の商人リディアという女性とその家族が救われます。幸先いいぞ!ところが!『占いの霊につかれた若い女奴隷』がパウロたちにつきまとい、『この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています』と何日も叫び続けます。宣伝してくれているんですが、その異様さに周囲は引いたことでしょう。パウロは困り果ててその霊を女性から追い出しました。すると女性を商売道具にしていた『主人たち』が激怒!パウロとシラスを行政長官に「ないことないこと」で訴え、行政長官もよく調べもせず、2人の服を剥ぎ取り、むち打ち、手枷足枷して、牢屋の一番奥に放り込みました。幸先いいぞ!と思ったのも束の間。最悪に思えません?リディア一家が救われたら「聖霊様の導きだ!」と感謝しますか?ならば牢屋に放り込まれても「聖霊様の導きだ!」と感謝できますか?聖霊様は牢屋にはもうおられないのか?いいえ。聖霊様はどこまでも寄り添ってくださるお方です。

どこでも賛美 16:25

パウロたちは体が痛みました。でも『真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた』。「うるさい!静かにしろ!」という囚人は誰もいない。美声?心にしみた?普通なら「俺たちは無実だ!不当な仕打ちだ!ここから出せ!」と叫び続けているかもしれません。しかしパウロたちは違った。囚人たちにとってそんな人たちは初めてだったのではないでしょうか。そこへ大地震が起きました。扉がみな開き、手枷足枷の鎖が壁から引き抜けました。看守が暗がりに目をやるとシーンとしている。大量脱獄?!看守は責任を問われ死刑になると思い自害しようとします。『自害してはいけない。私たちはみなここにいる』とパウロの声。どん底からの声が天からの声のように聞こえたのではないでしょうか。地震で扉が開いて鎖が外れたら、「聖霊様の導き!脱出しよう!」と思いません?でもパウロはじっとしていた。他の囚人も心が鎮まっていた。囚人たちも脱獄し再度捕まったらどうなるかわかりません。そして看守の心も鎮まることとなった。パウロたちがいたからこそです。

どこからでもみわざ 16:30-40

看守はパウロたちを自分の家で介抱し、一家そろってバプテスマを受けました。ピリピ宣教クリスチャンホーム第二号かもしれません。やはり聖霊様の導き。どこからでもみわざ。めでたしめでたし。と、事は終わりませんでした。パウロたちは夜があける前に牢屋に戻ります。行政長官はパウロたちを釈放するよう命じますが、パウロたちは異議を唱えます。「私にはローマの市民権がある。裁判もせず、この不当な取り扱いは何事か」。ローマの市民権には大きな権利と自由がありました。お金を払って得る人がいるほどです。しかしパウロは生まれながらにして持っていた。長官は牢屋に赴き、パウロたちに謝罪し連れ出しました。どうですか?聖霊様の導きと同時に、パウロたちもよくよく考えて、冷静に行動していないでしょうか。パウロが牢屋に入らなければ(しかも罪を犯して入ったのではない、この絶妙感!)、看守との出会いも救いもありませんでした。探し出すために導かれている。今後、牢屋から救いが広がる可能性もある。また、パウロはローマの市民権が役に立つことも知りました。聖霊様の導きの中で、それぞれの視点やアイデアや賜物を用い、クリエイティブで、ユニークで、豊かな働きが展開しているのではないでしょうか。

この世界にはどん底のような出来事がたくさんあります。それは他人事ではありません。そういう所にこそ主は届きたい。そこからみわざを始めたい。そこから神の国を広げていきたい。先に救われた者は、この福音を響かせるために派遣されるのです。パウロはそのために牢屋に、看守に、派遣されました。世の中の歌も多くの人の慰めや励ましになります。私たちも、どこにあっても主が共にあり、主を賛美し、福音を響かせるのです。

6月6日(日)の礼拝は、詩篇29.1-11から、「幸い。力を与える主の声」と題してメッセージです。

聖霊の導き

小さい頃、「神様の言うとおり~」と、指を振って、どちらの物を選ぶか?みたいなことをしていました。普段は自分が適当に判断している。でも判断に迷うと「神様の言うとおり~」。こんなことを大人もやっていないか?占いだったり、くじだったり、サイコロだったり、目の前の人や出来事にかこつけたり。クリスチャンはどうか?「祈ってこうするよう示されました」「聖霊様のお導きを感じてあなたを訪問しました」とか。それも同じか?それは常の判断なのか?では聖霊様の導きがあれば、全てが見通せて、迷わず、間違えることなく、問題もなく進めるのか?ということで、5月23日(日)のペンテコステ礼拝は、使徒の働き16.6-10から、「聖霊の導き」と題してメッセージです。

思うようにいかないこともある 16.6-7

『彼ら』とはパウロの宣教チームです。パウロはかつて、教会の熱心な迫害者でしたが、復活のイエス様に出会って、教会を生み出す宣教者になりました。しかし教会は最初、彼を受け入れられません。そこでバルナバが架け橋となり、パウロは受け入れられました。バルナバはパウロの恩人。二人はアジア地方に宣教に出かけました。それが第一回宣教旅行。そして再び出かけようとして大激論に!前回は、若いマルコが同伴したのですが、途中でチームを離脱。パウロは「今回は連れていかない方がいい」と主張し、バルナバは「連れて行こう」と主張。パウロはシラスと若いテモテを連れて、バルナバはマルコを連れて、別々に出かけたのです。分裂?そしてパウロチームが進もうとすると、聖霊様が二度阻まれました。良くないこと続き?聖霊様怒ってる?パウロチームは御心でない?やめる?聖霊様は地域や時代を超えて、クリスチャン全てに寄り添うお方。パウロチームにもバルナバチームにも。分裂と捉えることもできれば、手分けして出かけたとも捉えられます。しかも、チームはこの二つとは限らない。聖霊様はあらゆる人々に寄り添い、全体を見渡し、立体的に俯瞰的に、適材適所に進めようとされます。ですから私たちが思うようにならないことや、他が上手くいっているように見えることもある。でも思うようにならないからダメなのではありません。聖霊様は導き続けておられるのです。

思わないところに道が開けることもある 16.8-10

パウロたちは行く手を阻まれたからといって、旅行をやめませんでした。阻まれない方向へ進みました。するとヨーロッパを目前にしたトロアスに到着。そこでパウロは、向こう岸のマケドニア人が助けを呼ぶ幻を見ました。そこで『私たち』と呼ばれる人々が、マケドニアへ渡ることを決断します。さっきは三人称。今度は一人称。なぜ?使徒の働きの記者ルカが、ここでパウロチームに合流したと考えられます。とにかく。パウロは幻を見たからといって独断しませんでした。みんなで、これまでのことと幻も合わせて検討し、決断し、行動に移したのです。『私たちはただちに…渡ることにした』とありますが、ここには「探し求める」という言葉が使われています。これまでも「こっちへ行こう」「いやこっちじゃない」「こっちが行ける」と進んできましたが、この先も全てがスコーンと見えたわけではないのです。また『召しておられる』という言葉は「呼び寄せておられる」と訳せます。聖霊様は寄り添われるだけではなく、行く先からも呼び寄せておられる。思うように進めず、進めるところを進んでみたら、アジアからヨーロッパへ、思わぬところに道が開けていたのです。

聖霊様の導きは、カーナビと似ています。私とカーナビの目的地は一つ。今時のカーナビはあらゆる情報を取得して案内します。時に休むよう促します。しかし実際に手足を動かし、車を運転するのは私です。時にトイレや買い物、訪問でルート変更します。よく知っているはずの道が工事中で戸惑うこともあります。カーナビはそういうことも込み込みで導きます。聖霊様と私の目的は宣教です。旅行とは限らない。日常が宣教。聖霊様はあらゆる情報を見ながら導かれます。私には予期せぬことが降りかかったり、立ちはだかったりするように見えることがあります。思い込みや間違いもあります。それも込み込みで導かれます。さらには「私たち」という判断もあります。私たちは聖霊様の操り人形ではありません。聖霊様は「私たち」の視点、アイデア、経験、賜物にも期待しておられます。聖霊様も私たちの選択や判断の道具ではありません。聖霊様と私たちは人格的なコミュニケーションチーム。常に交わりながら前進する「教会」。目的が全うされるまでを、よりクリエイティブに、よりユニークに、より豊かに前進する。それが聖霊様の導きなのです。

パウロとバルナバのその後は?マルコはバルナバの元で成長し、後のパウロを助ける者になります。私たちにも紆余曲折や山谷はあります。しかしあった分だけ豊かになる。目的を見失わず、聖霊様とお互いに、柔らかく耳を傾け、よいものを分かち合い、手分けしながら働きを進めましょう。

5月30日(日)の礼拝は、使徒の働き16.11-40から、「どん底からの賛美」と題してメッセージです。

カッチカチの心

あなたは「私は頭が硬く、頑固で、心が狭い」と思われますか。それとも「私は頭が柔らかく、融通が利いて、心が広い」と思われますか。頭と言っても、ものの見方や考え方です。多くの場合、時に硬くなったり柔らかくなったり、その時の体調や年齢によっても違います。しかし心が硬くなっていると、表情や体の動きまで硬くなってしまうことってないでしょうか。そして何もかも上手くいかない、と感じることはないでしょうか。イエス様の弟子たちもそんな状態に陥りました。ということで、5月16日(日)の礼拝は、マルコの福音書6.45-52から、「カッチカチの心」と題してメッセージです。

似たような出来事に直面する弟子たち 6.45-48

弟子たちはこれまで、繰り返しイエス様の教えを聞き、わざを見てきました。権威を授けられ実習にも派遣されました。結構手応えのある経験でした。そんな弟子たちが今、ガリラヤ湖上で逆風の中、漕ぎあぐねていました。以前にも似たようなことがありました。『聞く耳があるなら、聞きなさい』というイエス様による集中講義が終わった後、ガリラヤ湖上で嵐に飲み込まれそうになりました。その時はイエス様も一緒。しかも寝ておられた。弟子たちは『先生。私たちが死んでも、かまわないのですか』と、キレ気味にイエス様を起こすと、イエス様は風と波を鎮め、弟子たちにこう言われました。『どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか』。弟子たちは『非常に恐れ』ました。今回は実習から帰ってきて、ゆっくり休もうとしたら群衆が追いかけてきた。イエス様から『あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい』なんて言われ、弟子たちはキレ気味に無理!と反応。イエス様は群衆に食べさせ、弟子たちの翌日分まで用意してくださった。そして今度こそ休みなさい!と弟子たちを舟で送り出されたのです。今回イエス様は陸地です。ところがまた疲労困憊するようなことに!私たちが弟子の立場なら何を思う?「休めと言われても休めない!」「なんで何度もこんなことになるんだ!」。ではイエス様は彼らをどんな思いで見ておられたでしょうか。

求めるべきはイエス様 6.48-51

明け方になっても弟子たちは逆風と格闘していました。なんちゅう体力!しかしさすがに疲れ果てていたでしょう。イエス様はこの時を見計らって、湖の上を歩き、舟を通り過ぎようとされました。物理的に無理?イエス様は天地万物の創造者。設計者(プログラマー)、製造者(エンジニア)、最高権限者(ルーラー)であるキリスト。この世界や人を修復したり、復活させたり、新たに生み出したり、動きや流れを変えることは自在です。そして人間のボディに収まり、様々な制限(お腹が減ったり、眠ったり、傷ついたり、死んだり)も、私たちと同じように経験し、私たちを親身に理解し寄り添うために、この世界に来てくださいました。そんな人にして神であるイエス様を弟子たちは何度も目撃してきたはず。しかしこの時の彼らの反応は「幽霊だー!」でした。私がイエス様の立場なら「お前たちの認識はそんなものか!」とガッカリです。でもイエス様は『すぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」』と舟に乗り込まれ、風はやんだのです。弟子たちはこの時も『非常に恐れた』。『先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていた』からとあります。この『鈍くなっていた』が「かたくなな」「岩石のように」という言葉。カッチカチの心です。どんだけイエス様とそのわざを見ても、すぐ自分のものの見方・考え方・行動に戻ってしまい、イエス様とつながらない。イエス様は「見て信じる」「体験して信じる」ではなく「信じて見る」「信じて体験する」ことを身につけてほしいと願っておられました。繰り返す出来事の中で、私を思い出し、求め、信頼し、私に安息と安心があることを知ってほしい。その思いがイエス様の言葉に表れています。『まだ信仰がないのですか』。

私たちは繰り返しやって来る問題に疲れてくると、物の見方・考え方・行動が硬くなりがちです。ますますこだわってしまうこともあります。そんな時こそイエス様(いつもイエス様ですが)。「イエス様を求めれば奇跡が起こる!」と言いたいのではありません。「イエス様を信じたのに奇跡が起きないじゃないか!」となると、また頭が硬くなっている。まず奇跡を求めているも同じ。結果がどうなるかわからなくてもイエス様を求め、信頼し、安らぎ、共に歩み続ける。「見て信じる」のではなく「信じて見る」ようになる。『わたしだ。恐れることはない』と手を差し伸べるイエス様に、柔らかい心・頭・視点・行動の全てが詰まっている。その柔らかい心をいただくことは、私たちにとって奇跡よりも必要なことではないでしょうか。

5月23日(日)はペンテコステ礼拝。使徒の働き16.6-10から、「聖霊の導き」と題してメッセージです。


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