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問題を乗り越える力

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東洋と西洋の中継地。文化、思想、宗教のるつぼ。快楽的、歓楽的、「コリント化する」と揶揄された町。しかしそこに「神の教会」があった。そこにどっぷりと生きてきた人たちが、キリストに召され、キリストのものとされ、キリストの心と思いを求めていく。てんでんバラバラな人たちが、キリストと同じ神の子とされ、キリスト化する道を歩み出す。ですからコリント教会は最初から一致していたわけでも清いわけでもありません。世の中と同じ問題があった。しかし問題を無視せず、染まらず、飲み込まれず、乗り越えるのが教会。その力はどこにあるか?

ということで、コリント人への第一の手紙第1章18節〜25節から「問題を乗り越える力」と題してメッセージでした。

宣教の愚かさこそ力

コリントでは知恵が尊ばれました。学者、賢者、論者に人々は群がり、「私は○○に師事する」「いや僕は△△につく」「いや俺は××だもんね」と自慢し誇り合っていました。そんなやりとりが教会の中に持ち込まれていました。しかし世の中の知恵では神様を認めるには至らない。「宣教の愚かさ」によって神様を知るようにされました。皆さんは「ヤドカリ的人生」をご存じですか?自分が集めた知恵を自分を守る殻にして生きることです。理解できない、信じがたい、自分の許容範囲を超えるものは受け入れない。その受け入れ基準は何か?それが事実か事実でないかよりも自分の好み。科学的証明。多くの人が好みますが、とても限られたことしか証明できません。歴史は別の方法です。地層や出土品や記録を調べ、推測し、仮説を立て、理屈を考える。その仮説や理屈に人が群がる。そして自分の安心として片づけてしまう。それが事実か事実でないかは置いといて。「宣教の愚かさ」とは「事実を事実として伝え、事実を事実として信じること」です。聖書の物語が事実であること。神様がこの世界を創造したこと。人が神様から的を外したことによって(これを罪と言います)死をはじめとするあらゆる問題が生じてきたこと。その罪と死とあらゆる問題から私たちを救うためにイエス・キリストが来られ、十字架にかかって死に、三日目に復活し、それから40日後天に還られたこと…を事実として認める。教会に問題があることを認めるだけでなく、神様が提示される事実を事実として認めるところに問題を乗り越える力がある。

十字架につけられたキリストこそ力

ユダヤ人たちは「しるし」を請いました。イエス様が地上におられたとき、「もし神の子ならふさわしいしるし(奇跡)を見せてみ!」と要求しました。イエス様はその要求に応じたわけではありませんが数々のしるしをなさいました。でもユダヤ人は認めない、信じない、十字架にかけてしまう。しかしイエス様は復活!これ以上ないしるし!でも「弟子たちが遺体を盗んだ」と、びくびく家に閉じこもっている弟子たちのせいにして認めませんでした。ギリシャ人は知恵を求めました。パウロはギリシャ人に知恵を駆使して聖書を物語りました。「これは聞いたことがない新しい教えだ!ぜひ聞かせてくれ!」と身を乗り出しましたが、いざイエス様の復活にさしかかると「また今度!」と逃げ出しました。皆さんはコバンザメ的人生をご存じでしょうか?コバンザメは大きくもなく強くもない魚。でも鯨にくっつくなら?世界を股にかけ、世界の餌場を堪能し、捕食者からも守られます。私たちは神様にくっつく。十字架につけられたキリストの事実にくっつく。聖書の言葉にくっつく。一生懸命知恵をかき集め、力一杯殻に閉じこもる必要はありません。力を抜いてくっつくだけ。くっつくとは認めること、信じること、聞いて従うこと。すると神様とその知恵がわかってくる。世の中の知恵も大切です。元々「神のかたち」である私たちの知恵ですから。でも「的外れ(罪)」ゆえどこか不整合だったり、歪んでいたり、真逆の効果が現れることもある。ですからちょっと横に置いて、まずは十字架の言(イエス様こそ言葉の中の言、知恵の中の知恵)に聞く。そこから始める。それが問題を乗り越える力だから。

パウロは神様の知恵、十字架の言を記すためコリント人への第一の手紙の筆を進めます。

ということで、次回6月26日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第1章26節〜31節から「神様の逆転的発想力」と題してメッセージです。


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