福音生活
2022年5月29日(日)
これまで、私が、私の、と自分の近況を報告していたパウロですが、ここからあなたがたが、あなたがたに、とピリピの教会の人たちへと話が変わります。パウロがピリピの教会の人たちに奨めていること、それは「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい」ということでした。福音にふさわしく生活すると…?5月29日(日)の礼拝はピリピ人への手紙1.27-30から「福音生活」と題してメッセージです。
福音にふさわしく「生活する」
京都市に住んでいる人は京都市民として生活します。京都市の様々な手当を受けることができると同時に、京都市のルールや義務も果たさなければなりません。よく分からないから今まで通り…というわけにはいきません。イエス様によって救われた私たちも、イエス様に救われ、天に国籍がある者として生活します。今まで通りではなく、キリストの福音を聞き、キリストの福音にあずかった私たちは、キリストの福音を聞いて信じているように生活をしていくのです。
そうすれば…霊を一つにして堅く立つ
「そうすれば…こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて…。」霊を一つにして堅く立つことができるようになることをパウロは願っていました。
どんなことがあっても脅かされることはない
パウロはここで反対者たちの存在と苦しむことを取り上げています。どちらも私たちの信仰を脅かしかねないものです。このとき、私たちが一つとなって堅く立てず、励まし合えなかったとしたら、助け合えなかったとしたら、祈って支えることがなかったとしたら、私たちはこの闘いに負けてしまうかもしれません。私たちは神様を見上げさせてくれるお互いが必要です。どんなことがあっても脅かされない姿の与える影響は大きいです。自分もそんな牧師でありたいと思いますし、天授ヶ岡教会がそのような教会であり続けてほしいと心から願います。
私たちどんなことがあっても脅かされることのないように、福音をさらに知り、福音にふさわしく生き、いつのときにも一つとなって堅く立つことができることを求めていきましょう。
6月5日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙5:16-26から「聖霊によって進もうではありませんか」と題してメッセージです。
私の願いより大事なこと
2022年5月22日(日)
自分が牢に入れられても福音が前進していくことを喜ぶパウロ。パウロにとってキリストが伝えられてくことは何よりも大事なことでした。自分の生死よりも…。実はパウロは世を去って早くキリストのもとに行きたいとさえ思っていました。手紙にはこのときのパウロの葛藤が綴られています。5月22日(日)の礼拝はピリピ人への手紙1.22-26から「私の願いより大事なこと」と題してメッセージです。
パウロの願い
パウロは「どちらを選んだらよいか、私にはわかりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています」と告白しています。パウロが板ばさみとなっていたのは、生きて伝道の働きを続けることと、世を去ってキリストのもとへ行くことです。そして世を去ってキリストのもとへ行く方がはるかに望ましいとまで言っています。これは決して今の境遇からの逃避ではなく、自分と出会い、自分を愛してくれるイエス様のもとへ早く行きたい、早くお会いしたい、イエス様とともにいたいという気持ちです。イエス様への思いをどれほど募らせていたか伺えます。
あなたがたの必要のため
しかしパウロは自分の願いを選ばず、「あなたがたの必要」を選びます。すなわち、ピリピの教会の人たちの信仰の成長と喜びのためには生きて一緒にいることがもっと必要なことだと考えたのです。そしてきっと主はそのようにしてくださると確信をもっていました。「私の願い」としては世を去ることであるが、「あなたがたの必要」のためには、生きてあなたがたのところに行くことだと語っています。
私の願いよりも大事なこと
よく読みますとパウロは本当にこの二つのことの間で揺れ動いています。しかし最後にはピリピの教会の人たちの必要を選びます。私たちが日常でこのような葛藤をすることはあまりないかもしれませんが、自分の願いを一つ下げて、目の前の方のための必要を選ぶことができたら幸いです。
主は労苦を無駄になさいません。目の前にいる方の必要のために時間を、物を、自分を用いていくことができますように。
5月29日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:27-30から「福音生活」と題してメッセージです。
マイナスのことがプラスに
2022年5月15日(日)
12節からパウロの近況報告が始まります。パウロにはピリピの教会の人たちに知ってほしいことがありました。5月15日(日)の礼拝はピリピ人への手紙1.12-21から「マイナスのことがプラスに」と題してメッセージです。
パウロの身に起こったこと
使徒の働きを見るとどんな危険も顧みず福音を語っていたパウロの姿があります。このときパウロはいよいよ捕まり牢の中にいました。それだけでも大きな出来事ですが、さらにパウロを苦しめるものとして、善意からではなく、党派心からキリストを伝える人たちがいました。善意からキリストを伝える人たちは、いまやパウロが捕まったことを機に、自分たちが伝えよう、守ろうと愛の動機をもって活動していましたが、党派心からキリストを伝える人たちは、自分たちの勢力を拡大し、パウロを苦しめるために活動していました。
指導者が牢に入れられ、その周りの人たちは2つに分かれている…。客観的に聞いたならなんという不幸かと思います。「私の身に起こったこと」はマイナスの出来事でしかありません。
かえって
しかしパウロは言います。「私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立った」のだと。この「かえって」という言葉は、予想とは反対のことになったという意味です。神様はパウロの投獄をマイナスにとらえてはおられませんでした。イザヤ書55.9に「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」と言われている通りです。牢にいることも、争いがあることも、主はもっと高いところからご覧になり、人の思いや考えを超えてご自分の働きを進められるのです。
福音の前進に役立った
パウロの投獄を主は用いて、親衛隊全員に知らせ、キリストを伝える人たちを起こされました。パウロの願いは一つ、生きるにも死ぬにも、牢にあってもそうでなかったとしても、キリストがあがめられること。神様はマイナスと思える出来事をプラスに、キリストが伝えられるという福音の前進に役立てられました。
私たちの身に起こるすべてのこと、マイナスに思えることをも福音の前進に役立てられる主に今週も祈りと期待をもって歩んでいきましょう。
5月22日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:22-26から「私の願いより大事なこと」と題してメッセージです。
私はこう祈っています
2022年5月8日(日)
「祈る」ということ自体は誰にでもあると思いますが、誰に祈るか、何を祈るかはそれぞれ違ってくるのではないでしょうか。今日はパウロの祈りに目を留めます。5月8日(日)の礼拝はピリピ人への手紙1.3-11から「私はこう祈っています」と題してメッセージです。
あなたがたすべてのために祈る
祈りと言えば自分や自分の家族、自分に関わる人のために祈ることが多いのではないでしょうか。しかしパウロは自分のためでなく、ピリピ教会の人たちを思い、祈ると感謝と喜びがあると言っています。誰かのために祈る、また自分が祈られているということそのものがとてもすごいでことです。私たちの内に働く神様の霊が祈りを導き、祈られている幸いを教えてくれます。
ともに携わってきたことを感謝する
パウロはピリピ教会の人たちが福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しました。しかし聖書にはピリピ教会の人たちが、パウロの伝道旅行について行ったとか、同じように投獄、福音を弁明し立証したことがあるとは書かれていません。実際は「ともに」行っていないにもかかわらず、パウロが「ともに」と言ったのはピリピ教会がパウロのために祈りとささげものをもってサポートしていたからです。パウロは一人で戦っているのではないことを知っていました。
私たちも普段はそれぞれ場所や状況は違いますが、祈るとき「ともに」立っていることをおぼえます。祈られている、これは私たちにとって大きな励ましであり力です。
大切なことを見分けることができるように祈る
パウロは「キリストの日に備えて」「神の栄光と誉が現わされ」るために、愛がいよいよ豊かになって大切なことを見分けることができるようにと祈りました。私たちもやがて主の前に立つときを見据えて、本当に大切なことを見分けることができるように神様に求めて行きたいと思います。
5月15日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:12-21から「マイナスのことがプラスに」と題してメッセージです。
私の中心にあるもの
2022年5月1日(日)
ピリピ人への手紙は、差出人、宛先、挨拶から始まります。このとても短い3つの部分すべてに、「キリスト・イエス」とか「主イエス・キリスト」という言葉が入っています。5月1日(日)の礼拝はピリピ人への手紙1.1-2から「私の中心にあるもの」と題してメッセージです。
キリスト・イエスのしもべから
この手紙を書いたパウロとこの手紙を受け取ったピリピ教会との出会いは使徒の働き16章に出てきます。パウロはテモテを連れてマケドニアの主要都市ピリピに向かい、婦人や看守の家族からピリピ教会が始まります。ピリピ教会にとってパウロは自分たちに初めに福音を伝えてくれた人。大先生。ですがパウロは自分を「キリスト・イエスのしもべ」と書きました。しもべとは奴隷です。
人は何かしらに支配されていると言われています。人の言葉や過去の出来事、感情やこうあるべきといった価値観などです。しかしパウロとテモテを支配していたのは、自分の計画や人の言葉ではなくイエス・キリストでした。自分を条件つけずに愛してくださる主人をもっていました。
キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち…へ
キリスト・イエスに愛されている、それをパウロはピリピ教会にもあてはめました。ピリピ教会が完全な教会であったからではありません。ここにもややこしい人がいて問題もありました。
「聖徒」とは聖人のことではありません。イエス様のものと区別された人を意味しています。パウロはピリピ教会をイエス様のために取り分けられた教会として見ていました。私たちは教会に対して、あの人に対して批判をすることがありますが、パウロはすでにイエス様のために取り分けられた教会、人として見ることができました。パウロはイエス様を通してピリピ教会を見ていました。
父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安がありますように
恵みとは救い、救われたから平安があります。そしてこの恵みと平安を与えることができるのは神とイエス様だけです。
パウロの中心にはいつもイエス・キリストがありました。自分は何者か?教会やあの人の見方は?恵みと平安の源は?私たちの中心もイエス様となっているでしょうか?
5月8日(日)の礼拝は、ピリピ人への手紙1:3-11から「私はこう祈っています」と題してメッセージです。