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臨在の賛美

世の中にはあまたの歌があります。幾世代にも歌い継がれてきた歌、その世代に共感を呼ぶ歌、最新の歌。慰められる歌、励まされる歌、いろんな垣根を越えて一つになれる歌。歌には力がある。教会では賛美します。賛美には二つの大きな特徴があります。一つは神様に向かってうたう歌だということ。もう一つは賛美の中に神様がおられるということ。『しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかた』(詩篇第22篇3節)とあります。賛美の大きな恵みを味わいたい!ということで、5月24日(日)の礼拝は、歴代志下第5章1-14節から、「臨在の賛美」と題してメッセージです。

準備する 11節

ソロモン王の時代に神殿が完成しました。しかしダビデ王の時代に準備は始まっていました。資材や費用はダビデが一生懸命蓄え、他の人々も寄贈・献金をしていました。楽器、器物、衣装も作られました。祭司養成や組織整備も行われました。そして祭司が身を清めることで神殿の営みがスタートしました。神殿は建物の完成だけではないのです。あらゆる準備が積み重ねられていました。では現代の神殿はなんでしょうか。教会が神殿です。教会堂ではなく私たち。そして牧師一人が祭司ではなくみんなが祭司(1ペテロ2:5)。自由に祈り、賛美し、礼拝できる教会堂があることは感謝です。しかし現代の神殿と祭司は私たち。そしてこの神殿は常に建築中。なぜなら常に世代交代があり、姿形は変わるから。でも大切なことは変わらずに受けつがれていく。そのために、私たちにもコツコツとした日頃の準備が必要です。共に御言に聞き、祈り、賛美し、交わる中で、常に整えられるのです。

手段を尽くす 12節

レビ人が祭司になりました。しかし神殿では祭司以外にもいろんな働きがありました。その中に賛美専属の人々(家族、一族)もありました。家族で賛美!もちろん祭司も賛美します。その数120名。そこに賛美専属の人々が加わるので結構な大人数になります。また様々な楽器が用いられました。教会の歴史を見るに、中世までは賛美は聖職者が中心でした。宗教改革やルネサンスの頃から会衆賛美が行われるようになりましたが、楽器の使用は限定的。しかし19世紀のリバイバル運動頃から賛美は鮮やかさを取り戻していきます。そして今。私たちはあらゆる楽器を使って、様々な音楽スタイルで賛美しています。「楽器はようしない」という人がありますか?私たちは神殿、祭司。そして神の家族、さらに楽器。一人一人が楽器。そしてみんな違う楽器。文句を言っている時や喧嘩している時は酷い音?でも共に御言に聞き、祈り、賛美し、交わる中で、本来の音色を響かせることができるのです。

一つになる 13-14節

祭司とレビ人は準備を重ね手段を尽くし全力で賛美しました。一人だけが歌い楽器を奏でるなら大したボリュームではありません。たくさんの歌声と楽器があるから豊かに響き合う。たくさんの人が「大きなひとり」のようになって重厚で豊かで力ある賛美を献げました。すると『雲』が神殿に満ちた。『雲』は神様の臨在を表します。神殿ですから神様の臨在があって当然。しかし賛美によって、目に見えるほどの臨在が現れたのです。それは人々が立っていられないほどの圧倒的臨在でした。さて。私たちは神殿、祭司、神の家族、楽器。そしてキリストの体です。私一人でもキリストの体。でも一人だけでは大きくて豊かなイエス様は表せません。いろんな私たちがいるからこそ大きなイエス様の豊かな面を表せる(奏でる)のです。もうおわかりだと思いますが、賛美は音楽的なものだけではなく、私たち全ての営みが賛美。その中に、イエス様の臨在が豊かに現れる!日曜礼拝の賛美はそのスタート。そして私たちの1週間の生活の中へ賛美は広がり、臨在も共に広がるのです。

パウロは言います。『詩とさんびと霊のうたとをもって語り合い』。『詩』は詩篇をはじめとする伝統的な賛美、『霊のうた』は新しい賛美とも言われます。その両方で神様と私たちお互いが交わるのです。歌えずとも楽器が弾けずとも、賛美を味わい語り合うこともできます。賛美の交わりと生活で一つとされ、キリストの体として遣わされ、主の臨在を広げて行くのです。

5月31日(日)はペンテコステ礼拝。ヨハネによる福音書第14章1-31節から、「私たちの助け主」と題してメッセージです。

神の国の奥義 聞くことがらに注意しなさい

私たちは生涯学び続けられます。学校、職場、引退後の生活に至るまで。今は情報の時代。古今東西あまたの知識を得られます。しかしそれを自分のものとするには体験が必要ではないか。座学と実践をくり返す中で理解を深め、基礎から応用へ発展させることができます。イエス様も弟子たちにそういう学ばせ方をしておられます。イエス様はまず『わたしについてきなさい』とペテロやヨハネたちを招きました。彼らもまずついていきました。神の国塾に入門です。イエス様と共に過ごし、話を聞き、みわざを見て来ました。『神の子イエス・キリストの福音』を少しずつ学んできました。そして『聞く耳のある者は聞くがよい』とたとえによる集中講義が始まった。今回はその続き。ということで、5月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章21-25節から、「神の国の奥義 聞くことがらに注意しなさい」という題でメッセージです。

あかりのたとえ 21-23節

ここでもイエス様は『聞く耳のある者は聞くがよい』と言われます。細かく言うと「聞く耳を持ち続ける者は、聴き続けなさい」です。今回のたとえの前半は『あかり』。当時の家は石造り・土作りで窓も小さく日中もそんなに明るくありません。あかりも種からとった油に芯を浸して灯すものでそんなに明るくはありません。しかしあかりがあるのとないのとでは大違い。さらに『ます』(量る器)や『寝台』が登場します。物を量る時、ますの下にあかりは置きません。ますの中が見えません。寝台の下にあかりを置くようなこともしません。寝台が燃えてエライことになるだけです。あかりは上に置いて、ますの中を照らし、寝台や部屋の様子がわかるようにします。ますは役に立つし、安全に部屋を動くことができます。さて。これはたとえ。照明の仕方を教えているのではありません。前回のたとえの中心の『種』は御言でした。今回のたとえの中心の『あかり』も御言です。種からとったあかり。旧約聖書にも『みことばは私の足のともしび私の道の光です』とあります。御言に聞き続け、問い続け、向き合い続ける私の心、私の生き方を照らす。さらには神の国の『秘密』という奥義の世界を照らすのです。私たちは御言を、私の心や生活を照らす場所に、いつも置く必要があるのではないでしょうか。

はかりのたとえ 24-25節

ここでイエス様は『聞くことがらに注意しなさい』と言われます。これも細かく言うと「聞き続けていることを、聞き分け続けなさい」です。「聞き分けのいい子やなぁ」と言ったりします。聞いたことを忘れず、理解して、行動に移している子です。さらにここには『はかり』が登場します。『あかり』の次は『はかり』。では『はかり』は御言?いえ。御言を聞いて聞き分ける私たちが『はかり』です。前回の種まきのたとえでは、御言に柔らかく聞く者は30倍、60倍、100倍の実を結ぶと言われました。今回は私たちが御言をどれだけ受けとめるかが問われています。「あの人は度量がある」「あの人は器が広い」と言ったりします。柔らかく、幅広く、懐深く、肯定的に受けとめてくれるイメージがある。相手を信頼してくれているイメージがある。そんな人にはますます人望が集まるのではないでしょうか。聖書を読まない、聖書に聞かないというのは、はかりに何ものっていない状態です。また聖書を読んでもいろんな反応があります。歴史物、非科学的奇跡物語、道徳的格言集…としては良いが、全部を神の言葉とするのはちょっと…。御言の価値や意味を取捨選択している状態。御言を切り刻んでその命を失わせている状態。はかりに一部だけ、断片的に、偏ってのっている。それは持っていると思っても持っていないのと同じ。取り上げられているも同じ状態なのです。今は聖書全体がわからなくても、全部が神の言葉だと信頼し、記される過去・現在・未来をまるまる受けとめるのです。『あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ』は、「あなたの量り続けるそのはかりで、自分にも量り与え続けられる」です。ドーン!と与えられた御言(聖書)を信頼して受けとめ、日々聞き続け、問い続け、向き合い続ける。神様はそんな私たちを喜んでなお信頼し、神の国の豊かな恵みを、さらにドドーン!と『なお増し加え』て下さるのです。

御言と奥義は相関関係にあります。そしてどちらも最初に全部受け取る(授けられる)ものなのです。そして御言に導かれ、日々神の国の豊かさを堪能していくのです。私たちは神様と御言にもっと信頼すべきです。信頼すればするほど神様の気前の良さがわかってきます。

5月24日(日)の礼拝は、歴代志下第5章1-14節から、「臨在の賛美」と題してメッセージです。

神のみわざが家族に

私たちは身近に起こる出来事に「こんなことになったのは、○○のおかげなんじゃないか」「△△のせいではないだろうか」「××をしたから降りかかったんじゃないか」と良くも悪くも理由を考えることはないでしょうか。遠くの誰かが同じような出来事に直面していても、あまり考えなかったことがいざ自分に降りかかったら、頭をフル回転しないでしょうか。今日はイエス様に出会った生まれつき目が見えない人と、その人を取り巻く人々の反応から、神様の視点を学びたいと思います。ということで、5月10日(日)の礼拝は、ヨハネによる福音書第9章1-41節から、「神のみわざが家族に」と題してメッセージです。

まずは御言に従った

弟子たちはイエス様に質問します。『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それとも両親ですか』。今でも何かあると、こんな考え方をすることがないでしょうか。しかも「他人の詮索」をするだけなんてことが。イエス様は『本人が罪を犯したのでもなく、また、両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』と言われ、その人の目に泥を塗り『シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい』と言われ、その人は『行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った』。え?御礼も言わずに?ビックリしたのは近所の人たち。当然質問します。誰が治したのか?彼は『知りません』とそっけない返事。そこへパリサイ人登場。彼らの反応は否定的。安息日に目を治すとは医療行為だ!ゆるされない!目を治したやつは『神から来た人ではない』。近所の人々もパリサイ人も今まで、彼には何もしてこなかったし、今もビックリしたり批判するだけ。でも彼には何かが起こり始めていた。彼はイエス様の言葉通りにしただけ。でもそのことで大きな変化が始まっていたのです。

段々わかってくる

パリサイ人は何度も同じことを質問します。彼はイエス様のことを『預言者だと思います』と答えます。事は次第に大きくなり、彼の両親も呼び出されます。両親は、それが息子とは認めるものの、誰が治したか知らぬ存ぜぬのよそよそしい態度。もしイエス様をキリストと認める者があれば、パリサイ人が会堂から追い出すことに決めていたのを知っていたからです。みんな、誰が癒したかを知っていたということです(彼だけがわかっていなかった)。両親は息子が見えるようになったことを喜ぶよりも、パリサイ人を恐れました。しかし彼は違いました。最初は『知りません』。次に『預言者だと思います』。そして『あの方は神から来た』と告白するに至ります。目を見張る変化があり、筋が通り、確信に満ちている。今まで目が見えず、物乞いをし、聖書も読めずにいたのに、聖書の学者の向こうを見事に張っているのです。

ついにはっきりわかる

ユダヤ人たちは『おまえは全く罪の中に生まれていながら、わたしたちを教えようとするのか』と、彼を会堂から追い出しました。彼らは彼に負けたのです。プライドが許さない。負け犬の遠吠え。それと共に、彼を『イエスをキリストと告白する者』と認めたのです。近所の人々、両親、パリサイ人、ユダヤ人。かたや目が見えなかった彼。どちらが罪の中にある?どちらの筋が通っている?どちらが輝いている?先の人々は混乱を極め、堂々巡りし、全然突き抜けない。喜びはなく、恐れや憎しみに埋没している。かたや彼は?散々に言われながらも輝いている。なぜ?『わたしは、この世にいる間は、世の光である』と言われたイエス様に従ったから。イエス様は彼に会われます(「彼を見つけ出して」とも訳せる)。彼はそれが信じたいと思っているイエス様とはまだ気付きません。イエス様は言われます。『あなたは、もうその人に会っている(もうその人を見ている。もうその人がわかっている)』。彼はイエス様を礼拝します。イエス様を神の子キリストだとはっきり認めたのです。

さて。彼に現れた『神のみわざ』は何?目が見えるようになったこと?では今まで見えていた近所の人、両親、パリサイ人、ユダヤ人たちはどうなの?『見える』と言いながら、何もわかっちゃいなかったのではないか。彼に現れたみわざ。それは、イエス様に出会い(見つけ出され)、イエス様という光によって、回復され成長し輝き出したこと、ではないか。自分や家族に問題を抱えていませんか?我関せずを決め込みたくなるような人が身近にいませんか?誰かのせいにしていることはありませんか?自分もその人もみんな神様に創造された唯一無二の存在。神様はみんながイエス様の光に輝いて、みんなに神のみわざが現れてほしいのです。大事なことは?目が見えるようになった彼は言います。『神は…神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞き入れて下さいます』。彼はイエス様のことを言ったのですが、彼も御言に従った。私も御言に従うのです。私から『神のみわざ』が現れ始めます。

5月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章21-15節から、「神の国の奥義 聞くことがらに注意しなさい」と題してメッセージです。

幸い。腐らないために

ドラマやアニメを見ていると、主人公が「どうせ俺なんかどうでもいいんだ」と吐き捨てる。すると友人が「腐ってんじゃねえよ」と注意する。そんなシーンがあったりします。また人のことを悪く言うことを「腐す」とも言います。自分のことを言って腐る。他人を悪く言って腐す。いずれも自分の心が腐っていないか?聖書にはそんな風に腐ってしまう人が記されています。ということで、5月3日(日)の礼拝は、詩篇第14篇1-7節から、「幸い。腐らないために」と題してメッセージです。

腐ってしまう人 1-4節

詩篇第14篇も『ダビデの歌』。『愚かな者』が登場します。「ナバル」という言葉です。ダビデがサウル王に追い回されていた頃、ナバルという強情で粗暴な大富豪がいました。ダビデが荒野をさすらいながらも、ナバルの羊飼いと羊を守ったことがありました。それでダビデはナバルに使いを出し、食糧を分けてもらえないかお願いしました。当時それが常識。しかしナバルはダビデを悪く言って要求を拒否。しかし羊飼いたちはナバルの妻アビガイルにダビデの功労に報いるべきだと懇願し、アビガイルが食糧を運び、とりなしました。ダビデはナバルへの刀を鞘に収めました。その頃ナバルは王のような大宴会を開いて酔いしれていましたが、その報告を聞いて石のようになり十日後に死亡…そんなことも第14篇の背景にはあるようです。『愚かな者』は『心のうちに「神はない」』と言いますが、単に無神論を言っているのではありません。ここに「腐る」という言葉が2回出てきますが、それぞれ違う言葉です。1節の『腐れはて』は「乱れる」「破壊する」という言葉で、ノアの洪水前の人々にも使われた言葉です。3節の『腐れた』は「よごれる」「腐敗する」という言葉です。また『迷い』という言葉がありますが「逸れる」という言葉です。神様を知っていながら、向かず聞かず従わない。的からどんどん逸れ、自ずと的外れな行為になり、社会が乱れるようになり、ついには破壊を来す。それが腐敗の進んだ状態です。そして『彼らは物食うようにわが民をくら』うようになる。腐っていく自分を生き延びさせるために、他人から奪うようになるのです。

腐らない人 5-7節

腐らない人は『賢い者』『神をたずね求める者』『善を行う者』『正しい者のやから』。ここから、そして詩篇第1篇から学んできてわかることは、腐らない人、新鮮な人、恵みを分かち合う人は、神様に向いて、聞いて、従う人です。そしてもう一つ『貧しい者』に身を置く人です。ダビデは自分から王になったのではなく、神様がダビデを王とされました。しかしサウルはそれを認めず、王としての知力・財力・権力・コネクションなど総動員して握りつぶそうとしました。ダビデはサウルも元々神様に立てられた王として、刃向かわずひたすら逃げ、夜露に濡れ、食べることにも事欠きました。そんな中でナバルの話しもあるわけです。しかし結果は?サウルは悲惨な死を遂げます。『その時、彼らは大いに恐れた。神は正しい者のやからと共におられるからである。あなたがたは貧しい者の計画をはずかしめようとする。しかし主は彼の避け所』。『貧しい者の計画』とは神様の計画です。『愚かな者』に貧しくさせられた人々と共に神様はおられる。聖書が語る『愚かな者』は華々しく、知的で強く、富み栄えています。世の中の常識から見れば『愚かな者』には見えない。そしてその足下には『貧しい者』が無数に苦しんでいる。そういう人たちが逆に愚か者呼ばわりされている。しかしダビデは『貧しい者』の側に立ち続けました。なぜなら神様がダビデをそのために立てられたから。そして『シオンからイスラエルの救が出るように。主がその民の繁栄を回復されるとき、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむ』に至るのです。ダビデを通して、神様の新鮮な恵みが民に流れ出す。ダビデは淀んでいる暇などありませんでした。

私たちはどうか。「私は神様を信じ、洗礼も受け、礼拝に出席しています」と言われますか?あなたの普段の生活はどうか?普段から御言に耳を傾け、神様とコミュニケーションし、その恵みを身近な人に分かち合い、共に喜び楽しんでいますか。口では「神はいる」と言いながら、態度が「神はない」と証ししていないか。サウルもナバルもイスラエル人。神様も律法も知っていた。でも彼らは『愚かな者』に身を置いたのです。ダビデは生涯『主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思』いました。朝な夕などんな状況でも祈り、叫び、賛美しました。だから彼は腐らなかった。新鮮な主の恵みを分かち合った。腐らないために、いえますます新しく豊かになるために主が共におられます。この主と共に歩むシンプルライフを続けましょう。

5月10日(日)の礼拝は、ヨハネによる福音書第9章1-41節から、「神のみわざが家族に」と題してメッセージです。


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