おことばどおりに
2023年10月29日(日)
エルサレム神殿で祭司として仕えていたザカリヤとは打って変わって、御使いはガリラヤのナザレといういなかに住む、いたって普通の女の子マリアのところに現れます。御使いとマリアの会話に思いを馳せましょう。10月29日の礼拝は、ルカの福音書1.26-38から「おことばどおりに」と題してメッセージです。
「おめでとう、恵まれた方。」
マリアに現れた御使いは「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と語りかけます。おめでとうとは挨拶の言葉ですが、御使いはマリアを恵まれた方と呼びます。それは主がマリアとともにおられるからです。
恵みとは受けるに値しない者に与えられるもののことです。私たちも普段神様から多くの恵みをいただいていますが、一番の恵みはこの一年も主がともにいてくださったことです。特に神様がともにおられることを感じた出来事があれば、書き残し分かち合いたいと思います。
「神にとって不可能なことは何もありません。」
受胎告知をされたマリアはどうしてそんなことが、と聞きます。その答えは「聖霊が臨み、いと高き方の力」がマリアを包むからです。そして御使いは言います。「神にとって不可能なことは何もありません。」これは「神にとって語られたことばに不可能なことは何もない」という意味です。神には何でもできる、というのは、神様が語られたことばにおいて、ということなのです。ですから私たちは神様の言葉である聖書を読み、思い巡らし、その通りに信じるのです。
「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
ですからマリアも「あなたが語られた神様の言葉が私の上に実現しますように」と答えています。主のはしためであるマリアは、人知をこえた神様の言葉を聞き、神様の言葉が自分の上に実現することを信じたのです。
ただこの決断は決して簡単ではなかったと想像できます。親は、周りの人は、何よりヨセフはどう思うだろうと考えたでしょう。しかしマリアは人がどう思うかよりも神様がどう思うかを選びました。
神様の口から出る言葉を日々どのように聞いているでしょうか。神様の言葉が私に実現する、と信じて、御言葉を内に宿すことができますように。
11月5日(日)の礼拝は、出エジプト記21.1-11から「自由の身となるよりも」と題してメッセージです。
時が来れば実現する神のことば
2023年10月22日(日)
イエス・キリストの誕生に先立って書かれたこのバプテスマのヨハネの誕生には、時が来れば実現に至らせることのできる神様のご介入がありました。それは「むかーしむかし、あるところに…」という不確かな話ではなく、はっきりと「ユダヤ王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司」に起こった出来事でした。10月22日の礼拝は、ルカの福音書1.5-25から「時が来れば実現する神のことば」と題してメッセージです。
神様はいつもの中で語りかけられる
ザカリヤは妻エリサベツとともに敬虔な生活を送るも、子どもが与えられませんでした。何度も祈ったことでしょうが、それももう望み得ない年になり、祭司としての務めを全うすることだけを考えていたのではないでしょうか。
そんなザカリヤがいつものように祭司としての務めをしているときに、神様は語られます。「恐れることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられた。」と。ザカリヤのいつもの日常が変わります。
特別な時だけでなく、いつもの礼拝、いつもの日常で神様は語りかけています。
神様は願いを覚えておられる
確かにザカリヤは敬虔な祭司ではありましたが、当時の社会的に見れば高齢で子どもがいないというのはとても恥ずかしく肩身の狭いことでした。しかし神様が願いを聞き入れられたのは、人からも自分でももう何の可能性もない、と思っているザカリヤです。神様の目はザカリヤに向けられました。やがてザカリヤが授かるヨハネは預言にもある偉大な人物となりますが、そのヨハネが仕える救い主がお生まれになるという壮大なご計画へとつながっていきます。
神様は私たちの祈りを忘れておられないだけではなく、ご自分のご計画のために最善の時に答えてくださいます。祈りは失望で終わりません。
神のことばの実現を待ち望む
ザカリヤは高齢ゆえに信じられず口が聞けなくなりますが、ずっと信じずにいたわけではありません。家に帰ってエリサベツに伝え、二人は信仰を働かせて応答し、エリサベツは妊娠します。やがてヨハネが生まれたときに、ザカリヤがまず発した言葉は「ほむべきかな、イスラエルの神、主」でした。
信じられない、信じたくない神様のことばにどう向き合っているでしょうか。
10月29日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.26-38から「おとこばどおりに」と題してメッセージです。
教えを確かにする
2023年10月15日(日)
ルカの福音書1章1-4節は序文にあたり、なぜこの福音書が書かれたのか、何がこの福音書に書かれてあるのかが記されています。著者であるルカは、すでに多くの人が書き上げようとしていた事柄を、初めから、綿密に、順序立てて書き上げました。すなわち、イエス・キリストが行い始め、また教え始められたすべての事柄についてです。10月15日の礼拝は、ルカの福音書1.1-4から「教えを確かにする」と題してメッセージです。
苦しみからも離れなかったルカ
ルカの福音書は他の福音書とは異なり、イエス様の誕生(さらにバプテスマのヨハネの誕生)から始まります。イエス様の弟子ではなかったルカですが、「綿密に」の言葉の通り、イエス様について多くを調べ上げて記しました。そんな著者ルカは、パウロの手紙に数回名前が出てきます。ルカがパウロのそばにいて、パウロをよく支えていたことが伺えます。パウロの晩年、迫害がもっとも激しいときにもルカはパウロのそばから離れることはありませんでした。それはルカが直接見たことはなくてもイエス様の十字架を目の当たりにするかのように受け止め、また迫害の中にあるパウロの祈りと喜々とした姿を見ていたからです。イエス様の華やかさではなく、受難を通して信仰は培われます。主のために、主とともに苦しむ中に私たちの信仰は堅くされます。主の恵みによって。
受けた教えを確かにしよう
ルカはテオフィロが受けた教えが確かであることが分かってほしいとこの福音書を書き記しました。私たちも聞いたこと、信じていること、教えられたことが、本当であるかどうか、聖書にあることなのかどうかを確かにすることは大切です。一つ一つの御言葉がここに書いてあると、こう教えていると、聖書にいつも立ち返って進みたいと思います。
あなたのために、ルカの思い
ルカは自分が受けた教えを確かにしただけでなく、テオフィロが受けた教えを確かにするよう熱い思いをもって書き上げました。人は自分が聞いただけではすぐに忘れてしまうことが多いのですが、人に教えるときに忘れにくくなります。一人ひとりがいつも教えを確かにすることができますように。一人を導く思いで、誰かのために教えを確かにするお手伝いができますように。
10月22日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.5-25から「時が来れば実現する神のことば」と題してメッセージです。
いい教会にしよう
本日は、水野晶子牧師がローマ人への手紙12.1-18から「いい教会にしよう」と題して御言葉を取り次がれました。