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祈られている教会

2023年8月27日(日)

コロサイ人への手紙も今日が最後です。獄中から出ることはありませんでしたが、獄中から書いた手紙が今や聖書として読めることに、神様のご計画が人の思いをはるかに超えていることを思わされます。パウロはまだ見ぬコロサイの教会の人たちに最後、パウロの同行者からの挨拶も書き加えました。8月27日の礼拝は、コロサイ人への手紙4.10-18から「祈られている教会」と題してメッセージです。

離れないアリスタルコ

 割礼を受けた、神の国のために働く同労者の一人で、パウロとともに囚人となっていたのがアリスタルコです。彼は使徒の働き19章で登場し、それからパウロに同行して、他の人がパウロから離れていくことがあったときにも決して傍を離れることがありませんでした。パウロは彼に慰められたといいます。

普通なら離れていく、去っていく、そんなときにも決して離れない友、それはイエス様ですが、そのイエス様にある友情をアリスタルコは現実にしました。離れたり、責めたりしたくなるときにも、その人の傍にいることは慰めとなります。

戻ってきたマルコ

バルナバのいとこであるマルコはかつて伝道旅行の途中で帰り、パウロは次の伝道旅行にマルコを連れていきませんでした。しかし二人は和解し、パウロはマルコの過去を取り上げることもなく、コロサイの教会が喜んでマルコを迎えるようにとも書き送ります。

パウロはマルコのためにも祈っていたと思います。一度離れたからダメというのでもなく、もう戻れないと思うのでもなく。主にある交わりに帰りましょう。また帰ってくることができるよう祈りましょう。マルコは交わりに戻り、のちにあのマルコの福音書を書き上げました。

祈り続けるエパフラス

 またコロサイに伝道したエパフラスは、教会ができたことからといってそれを良しとせず、コロサイの教会が成熟するようにと祈り続けていました。これは全牧師の祈りです。遠く離れていてもです。祈られていない人は誰もいません。

パウロの大きな働きの陰にはこうした仲間がいました。私たちも仲間に支えらえています。そして次は私も仲間となってお支えしたいと思います。

9月3日(日)の礼拝は、教区合同礼拝。詩篇23.1-6から「あふれる恵み」と題してメッセージです。

奴隷ではなく兄弟

2023年8月20日(日)

コロサイ人への手紙も終わりに近付いてきました。ここにはたくさんの人の名前が出てきます。パウロは決して一人で戦っていたのではなく、パウロが祈っているようにパウロ自身もまたたくさんの人に祈られ支えられてきたことが分かります。8月20日の礼拝は、コロサイ人への手紙4.7-9から「奴隷ではなく兄弟」と題してメッセージです。

兄弟と呼ばれたティキコ

 コロサイ人への手紙は、面識のなかったパウロがコロサイの教会に向けて篤い祈りと願いをもってしたためた手紙です。この大切な手紙をパウロから預かり、コロサイの教会に届けたのがティキコとオネシモでした。ティキコは使徒の働き20章で初めて名前が記され、それからずっとパウロのそばで働きを支えたようです。そんなティキコをパウロは「愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある同労のしもべ」と呼びました。こうした兄弟の存在は決して当たり前ではなく、神様の恵みです。この恵みを軽んじていないでしょうか。感謝しているでしょうか。

励まされるパウロの様子

ティキコは手紙だけでなく、パウロの様子も伝えるために遣わされます。それを聞いてコロサイの人たちが励ましを受けるためです。しかしこのとき、パウロはまだ牢につながれています。どこに励まされるのでしょうか。

普通なら落ち込んで、不貞腐れているかもしれない状況で、パウロはなおキリストの愛に取り囲まれていると主を賛美していました。その姿が励ましなのです。私たちの主にある忍耐や賛美の姿は、人の励ましになるのです!

奴隷から兄弟になったオネシモ

 このティキコに同行したのがオネシモです。オネシモはピレモンの奴隷でありながら逃亡し、パウロと出会ってクリスチャンになりました。パウロはピレモンにオネシモを奴隷としてではなく兄弟として迎え入れるようにお願いします。この姿はイエス・キリストが私たちを受け入れてくださったことと重なります。主はもはや私たちを奴隷ではなく兄弟として受け入れてくださいました。ピレモンもオネシモを赦しました。ここにオネシモの名前があるということは、主イエスにある赦しがなされたことを意味します。

主にあるお互いも「私のもの」でなく、主が与えてくださった恵み、兄弟です。

8月27日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙4.10-18から「祈られている教会」と題してメッセージです。

変えられた祈り

2023年8月13日(日)

コロサイ人への手紙は祈りから始まりましたが、最後も祈りで閉じられようとしています。祈りとは決して願いごとを聞いてもらうための手段ではありません。祈りとは父なる神様との会話、交わりです。願い事を叶えてもらうことではなく、願い事を知っていただくことに重きがあるのです。8月13日の礼拝は、コロサイ人への手紙4.2-6から「変えられた祈り」と題してメッセージです。

目を覚ました祈り

 私たちは普段どんな風にお祈りをしているでしょうか。聖書は、たゆみなく祈ることを教えていますが、ただ祈り続けるというのではなく、感謝をもって目を覚まして祈ることを教えています。祈る時に目を覚ましていることというのは実は関係しています。イエス様もゲッセマネの園で眠ってしまった弟子たちに「目を覚まして祈っていなさい」と語られました。これはただ起きていなさいということではなく、今がどういう時なのか見極めて注意して祈りなさいということです。

今が主にあってどういう時なのか教えていただいて、イエス様が感謝をもって見ておられたように感謝をもって見、たゆみない祈りをおささげします。

とりなしの祈り

パウロはイエス様に出会って人生が180度変えられました。だからこそ喜びをもって、自分のことよりも、何よりも、キリストの奥義を語れることを願いました。本当の救いを知ったからです。パウロはこの霊の戦いを勝ち抜くために祈りを求めました。

牧師のために、また神の家族の戦いのためにとりなして祈ることは力です。

行動とことばのための祈り

 そして教会にまだ来られてない方々に対しては、その人と過ごす時間を神様が与えてくださった時間として、イエス様のように過ごすことを教えています。人が聞いて嬉しい言葉を使いつつ、塩味のきいた料理のように真理を語ります。初めから上手にはできません。味付けに失敗し、言いすぎたり、もっとこんな言い方があったとかを繰り返していくことで、どのように答えていけばよいのか主が教えてくださるのです。

 これが、自分のことばかり祈ることから変えられた祈りです。

8月20日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙4.7-9から「奴隷ではなく兄弟」と題してメッセージです。

伊藤宣教師デピュテーション礼拝

本日は、伊藤宣教師がデピュテーションに来てくださいました。


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