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神を利用しようとする心

数年前、教団の牧師研修会の講演で、講師がこう言われました。「言葉で聖書を語っていても、そのように生きていないならば、聖書を否定することになります。それは異端的とも言えるのです」。聖書の言葉を語る牧師たちにとっては心探られる、重い語りかけでした。前回、私たちが祝福を得るための手段だと思っていることが実はそうではない、ということを見ました。さらに私たちは、祝福を獲るために神をも利用しようとすることさえあるのです(神様は利用されるような方ではありませんが)。ということで、1月28日(日)の礼拝は、創世記第30章25節〜第31章55節から、「神を利用しようとする心」と題してメッセージでした。

自分のしたいようにする

ヤコブはレアとラケルのために14年、さらに6年ラバンのもとで働きました。ラバンはヤコブに言います。『わたしは主があなたのゆえに、わたしを恵まれるしるしを見ました』。かつてペリシテ人アビメレクがアブラハムやイサクに言った言葉を思い出します。『あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる』『われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ました』。ラバンの場合、ヤコブに「神を見る」ほどではなかったにせよ、神の恵みを感じていました。ラバンは感謝の気持ちを表そうとしましたが、ヤコブは「報酬は要らない」と明言します。しかし当時価値の低かった様々な模様の入った羊ややぎを自分のものに、価値のあるものをラバンのものに、と提案。そしてラバンの目の届かない所で、俗信めいた交配を行い、より強い羊ややぎを自分のものとして増やし、ラバンのものを貧相なものに変えました。神様の祝福は後ろの方に。ヤコブの略奪行為が前面に。

自分のしたことを正当化する

神様はヤコブに『あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいるであろう』と言われます。しかしヤコブが妻たちに話す中での神様の言葉は随分と印象が違います。ヤコブの羊ややぎへの意図的な操作が、まるで神様がなさったような口ぶりになり、羊ややぎの件はまるでラバンから言い出したような口ぶりになり、自分はいかに正しく誠実であったか、ラバンがいかに欺いたか、そしていかに神様が味方して下さったか、主張するのです。しかし妻たちはヤコブとラバンのやりとりも、ヤコブの行動も実際には見ていないはず。妻は外に出ないから。事実を知らない人に、自分の欺きを隠して、他人の欺きだけを言う。自分のやりたいようにして、神の導きだとする。自分の本音を隠して、神の御心だとする。ヤコブの欺きは後ろの方に。神様を前に出して隠れている。

自分の賛同者をつくる

今まで競争相手だったレアとラケルは、ラバンという共通の敵ゆえに一致しました。私たちにもこんな事ない?しかし実際は、ヤコブがラバンに彼女たちを報酬として要求したことが始まりです。しかし悪いのはみんなお父さん!となっている。ラケルはラバンの大切なテラピム(その土地の宗教神)を盗み出しました。欺く者の賛同者もまた欺く者となる。神への賛同者ではなく、ヤコブへの賛同者。そしてヤコブ一家は逃げ出します。神の前にも人の前にも真実なら逃げる必要なんてない。ラバンを大いに祝福し堂々と故郷に帰る方法はいくらでもあったはず。ラバンの息子たちはこう言います。『ヤコブはわれわれの父のものをことごとく奪い、父のものによってあのすべての富を獲たのだ』。アブラハムやイサクには弱さや愚かさがあった。そして苦労もあった。でもその苦労は、神様の言葉に従って祝福を広げる苦労だった。だから周りの人は彼らに神を見た。ヤコブには弱さよりも強烈な「我の力」があった。その力で他人から祝福を奪う苦労はあった。口では神様を前面に出すがヤコブばかりが傍若無人。いや傍若無神。だから彼を見る者は怒りを覚えたのです。

それでも神様はヤコブを祝福しようとされます。なぜこんなヤコブをさっさと罰しないのか?見捨てないのか?神様のヤコブへの態度は私たちへの態度でもある。あわれみでもある。私たちも御言葉を掲げながら、神に従っている!と豪語しながら、ヤコブと同じ過ちを犯すものだから。神様はそんなヤコブや私たちを「異端的だ!」とすぐに切り捨てないで、機会を捉えて気づきを与え、祝福された者にふさわしい姿へ変えようと、忍耐深く導いて下さるのです。果たして私が神様を利用しようとしているのでしょうか?それとも神様が私を用いて下さるのでしょうか?

2月4日(日)の礼拝は、創世記第32章1節〜21節から、「変わり始めるヤコブ」と題してメッセージです。

祝福に関する思い違い

創世記はヤコブの物語となってきました。父イサクの物語は神様の祝福で始まり、イサクのお嫁さん探しの美しい物語がありました。ヤコブの物語も神様の祝福があり、ヤコブのお嫁さんになるラケル(リベカの兄ラバンの娘)との出会いがあります。しかしヤコブの押しのける者としての姿が表れます。ヤコブは母リベカの郷里にやってきました。そこに井戸があり、羊飼いたちが羊に水を飲ませるために集まっていました。そこへラケルが羊を連れて来ると知ると、その土地のルールを無視して羊飼いたちを追い返そうとし、ラケルの羊に真っ先に水を飲ませました。美しい出会いも色あせます。今日はヤコブの物語から私たちにもありがちな祝福に関する思い違いに気づきたいと思います。ということで、1月21日(日)の礼拝は、創世記第29章1節〜第30章24節から、「祝福に関する思い違い」と題してメッセージでした。

祝福は報酬ではない

ヤコブはラバンの元に身を寄せて働きます。ラバンはヤコブに「親戚だからとただ働きすることもない。報酬は何を望む?」と聞くと、ヤコブは7年分の報酬としてラケルを望みます。日本には結納がありますが、当時、かの地でも花嫁料をお金や物で払ったり、花嫁の家の手伝いをしたりしました。しかしそれは花嫁を送り出す家や花嫁が新しい生活のための必要に充てるもの。花嫁を買うためではありません。しかし私たちにもこんなことがないか?相手の年収を見て幸せが手に入ると思ったり、結婚は無理だと思ったり。結婚に限らずお金次第・努力次第で何でも手に入ると思ったり。お金も努力も大事です。しかし神様にある命と支配と愛という祝福はお金や努力では得られない。恵み。まず神様の祝福がある。そして仕事や結婚、その他様々な営みがあるのです。

祝福は欺くものではない

ラケルにはレアという姉がいました。レアは『目が弱かった(別訳では『優しい目』)』。ヤコブはラケルと結婚したつもり。でも一夜明けてびっくり。そこにいたのはレアでした。ヤコブはラバンに『どうしてわたしを欺いたのですか』とまるで自分は正しい者であるかのように激怒します。ラバンは姉を差し置いて妹が先に結婚する慣習はこの地にはないと、もう7年間働くことを条件にラケルをも嫁がせました。ドロドロしてる?私たちにもこんなことがないか?孫や子どもや伴侶を装った詐欺。本物の伴侶や家族が関係をこじらせば、少しでも自分が有利になるような訴え合い。間違いを正したり問題を解決するために訴えることは大事です。しかし祝福は欺いたり訴えることでは得られない。かつてヤコブは兄エサウと目の見えない父イサクを欺きました。今度は目の弱いレアをもって伯父ラバンに欺かれた。これは神様が仕組まれたことではありません。人間の余計な仕業です。

祝福は競争ではない

結婚したら今度は子作り競争です。レアは続けて子どもを生みます。その子どもたちの名前にはレアの神様への信仰が垣間見えます。しかしラケルはなかなか子どもが与えられません。そこでつかえめによって子を得ます。代理母戦争!またレアの息子が野で妊娠効果があるとされた薬草を見つけますが、ラケルはレアにヤコブとの一夜を提供する代わりにそれを要求します。ラケルの言動やその子どもたちの名前からは異常なまでの競争心があふれています。しかし子どもは競争して「作る」ものでも、取引して得るものでもありません。また祝福は神を味方につけた!と勝ち誇ることでもありません。私たちにもこんなことがないか?競争社会。競争して勝つことを祝福とする。他より多くを獲得することを祝福とする。必勝祈願!と神を自分の味方にしようとする。神を祝福の手段にしていない?

それでも神様は一人一人を、それぞれにふさわしく祝福したい。そしてヤコブに目の向けどころの間違いを気づかせようとされている。ヤコブは激しく子どもを要求するラケルに怒って言いました。『あなたの胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代わることができようか』。自分の力で何とか祝福を得ようと執念を燃やすヤコブですが、ちらっと祝福の神様が見えてきました。でもまだその力は抜けません。とうことで、1月28日(日)の礼拝は、創世記第30章25節〜第31章55節から、『神を利用しようとする心』と題してメッセージです。

地の塩、世の光

1月14日(日)の礼拝は、天授ヶ岡教会誕生と建て上げのため労されたドロシー・エレン・ホーア先生と福田八重先生の記念礼拝でした。お二人は1920年代は東京で、1930年代は大阪で働きをなされ、戦後は京都で働きを始められ、天授ヶ岡の地に教会が誕生しました。デモクラシー、戦争、敗戦、民主化、復興と社会がどんなに変化しようと変わらずに福音を伝え続け、主のため人のために奉仕されました。その姿はマタイによる福音書第5章13節〜16節にある「地の塩、世の光」そのものです。有名な「山上の説教」です。キリストは群衆を背景に弟子たちに「あなたがたは…」と語り始められます。キリストに救われ従うのは当時の弟子たちだけではなく、ホーア先生や八重先生、私たちも同じ。「あなたがたは…」という語りかけに私たちも耳を傾けましょう。

あなたがたは地の塩である

「あなたがたは地の塩になれ」「あなたがたは地の塩になるだろう」ではなく、『あなたがたは地の塩である』。すでに塩。塩は防腐効果があり、少量で料理の味を引き立てます。しかし当時の塩は今ほど純度が高くはなく、塩気の無いものもありました。私たち教会もこの塩と同じ働きがある。何に対してか?地に対して。それはこの世界、社会、人々。私たちは食物に限らず「腐敗」という言葉を様々な分野で使います。一つ腐敗が見つかれば芋づる式に腐敗が発覚します。それは他人事ではなく、私たち一人一人の内に腐敗があるからではないでしょうか?私たち教会も腐敗の中にあって塩気を失っていくのか?いいえ!キリストに救われ従う者は、地の塩として腐敗を止め、それらのものが元々持っていた良い味を回復させ引き立たせるのです。

あなたがたは世の光である

「あなたがたは世の光になれ」「あなたがたは世の光になるだろう」ではなく、『あなたがたは世の光である』。すでに光。その光は『山の上にある町』にたとえられます。丘陵地帯のガリラヤ地方の町々。大きくありません。でも太陽に照らされると輝いて見えました。また家の中のあかりにもたとえられます。小さなあかり。当時の夜なら家の中を照らすには十分。光は反射させることで、また闇に輝くことで、目印になったり周りを明るくします。私たち教会も同じ働きがある。何に対してか?世に対して。地と同じ。私たちは夜に限らず「闇」という言葉を様々な分野で使います。腐敗もあれば闇もある。それも他人事ではなく、私たち一人一人の内に闇があるからではないでしょうか?私たち教会はその闇に圧倒され闇に埋もれていくのか?いいえ!キリストに救われ従う者は、キリストの光を内にいただいて、世に対して輝かし、人々を光源であるキリストへ導くのです。

あなたがたは御言に従うのです

『人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい』。『よいおこない』が塩の効き目、あかりの輝き。キリストはこの後、山上の説教が終わるまで、御言に従うことの大切さを語られます。つまり「御言に従いなさい。それこそが『よいおこない』だ」ということ。御言に従うことがキリストに従うこと。御言を行い伝え教える。信仰の先輩たちもどんな中にあってもこの一事に徹しました。塩は少量で効果がある。光も闇の中なら十分明るい。日本のクリスチャンや教会は決して多くない。でも逆に目立つ。私がクリスチャンだ牧師だと自己紹介するととても珍しがられいろいろ質問されます。「内田さんはクリスチャン」とその方々が宣伝してくれます。ある方は「私が礼拝に出かけると家族や近所の人が馬鹿にする」と言われました。でもその人が忠実に礼拝に通う姿は間違いなく周囲の方々の心に焼き付いている。どんなことがあっても行くべき所、礼拝すべきお方、聞いて従うべき御言がある。その方は行動でその事を立派に証ししているのです。

『あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です』『曲った邪悪な時代のただ中にあって、…あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のように輝いている』。信仰の先輩たちのようにはできなくても、御言に照らされて、御言を堅く持って小さな一歩を踏み出しましょう。その小さな一歩の積み重ねが闇広がる時代をもぶれることなく貫くのです。神様はどんな小さな一歩をも星の輝きのように喜んで捉えて下さり、御国の望外な喜びへと導いて下さいます。

1月21日(日)の礼拝は、創世記第29章1節〜第30章24節から、「祝福に関する思い違い」と題してメッセージです。

不可能を可能にされるイエス様

今週日曜日、月曜日とあちこちで成人式が行われました。礼拝でも青年祝福の時を持ちました。次代を担う青年が教会にあることを感謝します。しかし私たちを取り巻く社会は様々な意味で厳しさを増しています。将来は明るい!と言えないようにも思えます。何が青年祝福なんだと思えてしまいます…が、さにあらず!私たちには力ある御言の語りかけがあります。『イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」』。イエス様はどんな出来事の中でこの御言を語られたのか?ということで、1月7日(日)の礼拝は、ルカによる福音書第18章18節〜27節、第19章1節〜10節から、「不可能を可能にされるイエス様」と題してメッセージでした。

どんなに持っていても

まずは金持ちで、役人で、小さい頃から律法を守ってきた青年です。他の福音書から青年だとわかります。ある意味完璧な人、勝ち組、富裕層。地上で得られるものはほぼ持っていた。しかし彼に無いものがあった。ぜひ手に入れたいと望むものがあった。それが『永遠の生命』。彼は今持っているものを死の先まで持って行けないとわかっていました。じゃあ自分に何が残る?青年はイエス様に『よき師よ』と訪ね、『何をしたら』永遠の生命が得られるか尋ねます。イエス様は『持っているものをみな売り払って、貧しい人に分けてやりなさい。そして、わたしに従ってきなさい』。持ち物を売り払い貧しい人に分けるのは『天に宝』を持つため。イエス様に従うのは『永遠の生命』を得るため。青年が永遠生活においても富むためにイエス様は語られました。しかし青年は悲しみながらイエス様の視界から消えていきました。

どんなに嫌われても

次に取税人のかしらザアカイ。金持ちです。取税人は同胞から金を取り立てローマに貢ぎ私腹を肥やす『罪人』とみなされていました。ザアカイはそのかしら。ザアカイの住む町にイエス様が来られる!と人だかり。ザアカイは背が低く人だかりに遮られます(好かれていたら前へ通された?)。彼は木に登ってイエス様を待ち構えます(若かった?)。そこへイエス様『ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから』。ザアカイは『急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れ』ました。そして彼は誰に言われたわけでもないのにこう言います。『主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します』。彼に不正の覚えはないようですがかしらです。部下が何をしているかわからない。当時不正返済は1.2倍返しでしたが4倍とは破格。おそらく財産の半分をそれにと考えたのでしょう。イエス様は『きょう、救いがこの家にきた』と言われました。

イエス様に従う

ザアカイは先の青年のように『永遠の生命』を求めたわけではありません。みんなから嫌われ、罪人扱いでした。でも財産を施すことをいとわなかった。『きょう、救いがこの家にきた』。それは「きょう、私(イエス様)がザアカイのうちに入った」「きょう、永遠の生命がザアカイのうちに宿った」と言うことです。イエス様こそ救い。永遠の生命。不可能を可能にされる神。イエス様に従うこともイエス様を喜んで迎え入れることも同じ。先の青年とザアカイの決定的な違いはこのイエス様に従ったかどうか、「よき師」ではなく「救い主」として迎え入れたかどうかなのです。私たちも同じ。地上でどんなに持っていても失われる。地上のどんなものを持ってしても永遠の生命は得られない。しかし、何も持っていなくても、どんなに嫌われていても、最悪でも、イエス様に従いさえすれば、そこに救いがあり、永遠の生命があり、喜びがあり、今まで変えられなかった人生さえ変えられるのです。

従う先に将来がある

先の青年もザアカイもイエス様に従ったら一文無し?二人のその後は聖書に記されませんが、イエス様は人から取り立てるようなケチなお方ではありません。与えてばかり。でも尽きない。真に富めるお方。イエス様にこそ従うべき。それは与えられるばかりだから?私たちが与えられたものを分かち合う者となるためです。富が集中し格差が広がるとやがて社会や国は立ちゆかなくなります。イエス様は私たちが得たものを、社会の底辺にある人々や社会的弱者・少数者(でも決して少数ではない)を支えるために活用しなさいと言われるのです。みんなが豊かになり、社会基盤が強くなり、与える人をも必ず豊かにしてくれます。そしてそれだけではなく、イエス様は「私に従いなさい」と言われます。それは一人一人が永遠の生命を得、朽ちない最大の資産「神の国」を受けつぐため。このイエス様にこそ私たちの永遠の祝福があるのです。

私たちは何に目を向け聞いているのでしょうか。不可能を可能にするイエス様とその御言にではないですか?きょう、そしてずっとイエス様を喜んで迎え入れ、従ってまいりましょう。永遠の生命を喜び、天の宝を楽しみにしつつ、イエス様の豊かさを分かち合ってまいりましょう。

1月14日(日)は、天授ヶ岡教会誕生の働き人ドロシー・エレン・ホーア師と福田八重師の記念礼拝。マタイによる福音書第5章13節〜16節から、「地の塩、世の光」と題してメッセージです。

 

神の国拡大の秘密

戦後日本のクリスチャンは長らく100万人の壁、1%の壁を越えられていません。近隣のアジア諸国では増加してきました。しかし日本だけなぜ?新年早々暗い気持ちになるか?さにあらず!以前礼拝で「日本の歴史はその草創期には古代ユダヤ教の影響が見受けられ、中世には中国に入ったキリスト教の影響を受けている。日本の歴史は聖書の世界と無関係ではない。かつて『神国日本』と言ったけれども聖書の『神の国』から決して遠くはない」というお話をしました。そういうことを知るだけでも励まされます。さらにキリストの種まきのたとえ話から、私たちの宣教の豊かな結実の励ましをいただきたいと思います。ということで1月1日(月)の元旦礼拝は、マルコによる福音書第4章1節〜20節から、「神の国拡大の秘密」と題してメッセージでした。

御言の種まきにあり

『聞きなさい、種まきが種をまきに出かけた』。種は保存できます。一つから一つしか採れないと言うことはありません。必ずたくさんの実を結びます。種はまくものです。まいてはじめて種の力が発揮されます。まけばまくほど多くの実を結びます。キリストは『種まきは御言をまくのである』と言われます。御言は聖書という形で保存され世界中にまかれています。世界には7千ほど(諸説あり)の言語がありますが、2300の言語に翻訳され、1500ほどが翻訳中です。1815年から1998年までの間に3880億冊が印刷されました。しかし遠くの誰かが聖書を翻訳し印刷し御言をまいていたらいいのか?キリストを信じるすべての人に『福音を宣べ伝えよ』とキリスト。『御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても』とパウロ。私には私にできる種まきが、あなたにはあなたにできる種まきが、この教会にはこの教会にできる種まきがあるのです。

人の心の耕しにあり

キリストのたとえ話で種はいろんな所に落ちます。種を掬って大胆に撒き散らす方法だからです。道ばた、石地、いばら、そして畑。それは人の心の状態をさしています。種は御言。そして御言の落ちる場所は人の心。種は心に蒔かれ、保存され、力を発揮し、実を結ぶ。そのためには人の心が耕されている必要があります。どうする?私がその人との信頼関係を培うことです。畑は土作りから。地道な作業、骨の折れる作業、日常の大切な営みです。人間関係も同じ。にわかにはできません。たくさんの人と向き合うことはできません。ですから神様は私たちを同じ所に住まわせられないで、あちこちに住まわせられています。畑は広い。神様は私たち全体の日常の営みを通して、御言の種まきと地道な人間関係づくりを用い、必ずや豊かな実りを与えて下さいます。

すべては神の主権にあり

畑も整い種もまく。しかし適切に太陽の光が注ぎ雨が降ってくれなければ実を結びません。こればかりは優れた農夫でも力が及びません。圧倒的な自然の営みあっての農夫の営み。でも農夫の営みなくして実りなし。神の国拡大も同じ。神様の圧倒的な主権あっての私たちの営み。しかし私たちの先の二つの営みなくして豊かな結実はない。キリストのたとえの種はおそらく麦。当時麦一粒から数粒しか採れませんでした。品種改良で今20粒ほど採れるようになりました。ですからキリストの『ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった』という言葉は破格な結実。キリストはクリスチャンの数を言われたとは限りませんが、先の日本のクリスチャン1%も、なんだかワクワクする数字に思えてきます。『わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さるのは、神』とパウロ。この破格の神様に期待いたしましょう。

キリストは言われます。『聞きなさい』『聞く耳のある者は聞くが良い』。私たちは何に聞いているのか?力ある御言です!目の前の現状を見てがっかりしない。種を蒔いたばかりの畑を見てがっかりする農夫はいません。逆に期待し喜びつつ収穫の準備をします。今年も先の二つを大切に営み、神様に期待しましょう。収穫は一気に来ます。みんなで「その時」に備えてまいりましょう。

1月7日(日)は青年祝福礼拝。ルカによる福音書第18章18節〜27節、第19章1節〜10節から、「不可能を可能にされるイエス様」と題してメッセージです。

神のみわざのカウントダウン

世界中で年越しカウントダウンが盛況です。みんなで「10,9,8…3,2,1,0!」。すると花火が打ち上がり、サーチライトが夜空を照らし、歓声を上げます。昨日から今日へ日付が変わっただけ。またカウントダウンは10秒前から始まったわけでもない。新年を迎えたと同時に翌年へのカウントダウンは始まっている。でも普段そんなことは意識していない。でも「この時」ばかりは特別。しかし私たちにとって年越しカウントダウンよりも大切な人生のカウントダウンがあります。ということで12月31日(日)の年末感謝礼拝は、ルカによる福音書第1章26節〜38節から、「神のみわざのカウントダウン」と題してメッセージでした。

救い主誕生のカウントダウン

ユダヤ人たちは救い主誕生という「この時」を待っていました。しかしイザヤの預言から700年、旧約聖書最後の預言者マラキから450年。預言から数百年後に、田舎町の田舎娘から救い主が誕生するとは誰も思っていませんでした。マリヤも「この時」を待ち望んでいました。でもまさか自分が救い主の母親になるとは思っていませんでした。マリヤの前に御使が現れて驚きでしたが、御使が語ったことはもっと驚きでした。しかし「ではどのようにしてそれは可能なのですか?」と前向きな態度を示し、御使の説明を聞いて『お言葉どおりこの身に成りますように』と応答したのです。神のみわざは必ず成ります。人間には見えなくても気づかなくても忘れていても、着々と準備され整えられ姿を現します。神のみわざのカウントダウンは停まることはありません。しかしその実現のために必要なことがあった。それがマリヤの告白です。神様はマリヤの告白なしにこの事をなさろうとはしませんでした。

マリヤの救いのカウントダウン

マリヤの人生は驚きの連続でした。キリスト誕生だけでも驚きでしたが、キリストの数々の奇跡やユダヤ人リーダーたちとの丁々発止としたやりとりはもっと驚きでした。キリストの十字架の死はもっともっと驚きでした。そのキリストが三日目によみがえり、さらに40日後天に上ったことはもっともっともっと驚きでした。しかしこれらのことも預言の数々が成就したということです。神のみわざが次々に姿を現したのです。キリストの救いが私たちのものとして完成したのです。それはマリヤのための救いでもありました。そしてマリヤのあの告白があったからこそ。かつて御使いはマリヤに『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです』と語りかけました。マリヤは数十年後に自分の告白と御使の言葉の意味を自分のものとして実感したのではないでしょうか。

私の人生におけるカウントダウン

神様は私たちにおいても神のみわざのカウントダウンをなさっています。「恵まれた人よ、おめでとう、主があなたと共におられます。恐れるな、あなたは神から恵みをいただいているのです」とキリストの救いをプレゼントとして差し出しておられます。「キリストの救いがこの身に成りますように」と受け取ればいい。この告白がなければキリストの救いもその後に続く神の恵みのみわざも自分のものとはなりません。でもマリヤのようなハラハラドキドキはごめん?マリヤと同じハラハラドキドキはありません。しかし何が起こるかわからないのはマリヤの時代も今の時代も変わらない。神様は私たちを恐れさせたり滅ぼすために非常識なことをなさるのではありません。私の上に救いと恵みのみわざを次々に実現したいと願っておられます。私たちはその神様に期待して「お言葉どおりこの身に成りますように」と告白することが最も賢明ではないでしょうか。『神にはなんでもできないことはない』のですから。

神様が私たちに現して下さったみわざを思い起こし感謝しましょう。新しい年も神様のみわざに期待しましょう。神様は数々のみわざのカウントダウンをまだまだ進めておられます。その実現を見るために「お言葉どおりこの身に成りますように」と告白してまいりましょう。

1月1日(月)は元旦礼拝。マルコによる福音書第4章1節〜20節から、「神の国拡大の秘密」と題してメッセージです。


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