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キリストにあって歩みなさい

2023年4月30日(日)

「キリストにあって歩みなさい。」これをパウロは、良いクリスチャンになるためではなく、すでに「あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから」受け入れたように歩むことを教えました。とは言え、キリストにあって歩むとはどういうことでしょうか。4月30日の礼拝は、コロサイ人への手紙2.6-15から「キリストにあって歩みなさい」と題してメッセージです。

根ざし、建てられ、信仰を堅くし、感謝する

 「キリストにあって歩む。」なんとなく分かるような分からないような言葉ですが、パウロはキリストにあって歩むクリスチャンを、まるでキリストという木に植えられており、家が建つように建て上げられており、教えを理解し、感謝あふれる姿として描いています。

教えや知識のあやふやなところ、教会や他のクリスチャンに対する不満のあるところを利用して、異端や誤った教えは入ってきます。パウロは、「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい」と教えています。

だれかの捕らわれの身にならない

パウロは、イエス様を信じているクリスチャンが「だれか」に誘拐されることを警戒しています。その「だれか」とは、「人間の言い伝えや、この世のもろもろの霊によるもの」です。人間の言い伝えとは、神様が言ったことではなく、人が作った伝統のことです。これらのものは、最終的にイエス様を指し示すことはなく、誰か別の人や、私たちの義務、奉仕、努力などに目を向けさせます。しかし、神の満ち満ちたご性質はキリストのうちにこそあって、他のものには救いも喜びもないのです。

キリストにあって満たされている

神の満ち満ちたご性質を持ったイエス様を信じる私たちもまた満たされているので、他のものは必要ありません。イエス様は割礼やバプテスマにあらわされるよう、神に背いていた古い生活を取り除き、神様と共に生きるものとしてよみがえらせてくださいました。また私たちの罪の借金を代わりに支払ってくださり、私たちを縛り付けるものはキリストの捕虜とされました。私たちは解放されたので、何にも捕らわれずにキリストにあって歩むことができるのです。

5月7日(日)の礼拝は、出エジプト記15.1-21から「この方こそ、私の神」と題してメッセージです。

知恵と知識はキリストのうちに

2023年4月23日(日)

直接は会ったこともないであろうパウロがコロサイの教会に向けて手紙を書いたのは、教会に間違った教えが入り、クリスチャンたちの生活や考えを惑わし、混乱をもたらしていたからです。私たちの周りにも異端をはじめ、さまざまな「教え」がはびこり、有益なものもあれば、害をもたらすものもあります。知らず知らずに刷り込まれているものもあります。パウロはこれらに惑わされることがないよう手紙をしたためました。4月23日の礼拝は、コロサイ人への手紙2.1-5から「知恵と知識はキリストのうちに」と題してメッセージです。

どんなに苦闘しているか

 パウロは、コロサイや隣町のラオディキア、また会ったことのない人たちのために苦闘していることを知ってほしいと書き送りました。コロサイの人たちは、会ったことのないパウロが自分たちのために苦闘していることを知って、パウロの愛とともに、自分たちの教会は大丈夫なのかと危機感をもったのではないでしょうか。

心に励まされ、確信をもつ

 パウロが苦闘しているのは、コロサイの人たちが励まされ、全き確信をもつためです。間違った教えが入り込んできたら、いったいどっちが正しいのか、誰の言うことが本当なのか、ギスギスしてしまいますし、そうした状況自体、教会にとって大きな痛みとなります。パウロは愛をもってコロサイの人たちを励まし、教えることで確信を与え、キリストをますます知ることができることを願いました。

知恵と知識はキリストのうちに

イエスさまは神の御子であり、神の知恵も知識も、ご性質もすべてがキリストに表されているので、惑わされないためにはキリストを知ることが不可欠です。

私たちはキリストがかしらなるこの天授ヶ岡教会を建て上げるために、集められました。この教会を建て上げる一人として、イエス様に聞き、学び、教え合える交わりを築きたいと願います。

たくさんの教えがあふれ、さまざまな情報を刷り込まれる環境の中で、キリストにこそ、知恵と知識の宝があることをおぼえて、へりくだり、見抜く力をもてますように。

4月30日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙2.6-15から「キリストにあって歩みなさい」と題してメッセージです。

奥義を伝えます

2023年4月16日(日)

先週は、十字架にかかられ死なれたイエス様がよみがえられたことを祝うイースターでした。当時、他にも十字架刑に処せられた人たちが多くいた中で、神様が唯一よみがえらせたイエス様の十字架と復活には、私たちの罪をゆるし、神様との和解を与え、また私たちも同じ復活にあずかる希望を指し示しています。教会は2000年間そのことを信じ、伝えてきました。その中の一人がパウロです。4月16日の礼拝は、そのパウロがコロサイの人たちに宛てたコロサイ人への手紙1.24-29から「奥義をつたえます」と題してメッセージです。

苦しみを喜ぶパウロ

 ふつう、苦しみとは避けたいもので、苦しみから逃れたくて助けを求めることは往々にしてありますが、パウロはコロサイの人たちのために受ける苦しみを喜びとしていると伝えました。会ったことも見たこともないコロサイの人たちのために、なぜ苦しむことを喜べるのでしょうか。それは、コロサイの教会が、十字架上で死なれたキリストのからだであるからであり、苦しみが受難のイエス様のように神の民とされたことを示すからです。

奥義を伝えるパウロ

 パウロが苦しんでいるのは、それが神様から委ねられた務めであり、その務めとは世々の昔から隠され、今は明らかにされた奥義であるキリストを伝えることです。

 旧約聖書を読むと、「奥義」について預言や幻が多く記されており、またどんなに待ち望んでいたかが残されています。かつての人々がどんな思いで待ち望み続けたのだろうと思いを馳せるとともに、私たちにはすでにイエス様が知らされていることの幸いをおぼえます。

諭し、教えるパウロ

パウロがキリストを宣べ伝えているのは、すべての人をキリストにあって成熟したものとして立たせるためです。パウロはここで3回も「すべての人」という言葉を使って、みながキリストにあって成熟するよう奮闘していると言いました。またそのために、すべての人を諭し、教えているとも。

成熟させてくださるキリストをなお教えていただき、また諭し教え合える教会が建て上げられますように。私たちのうちにおられるキリストによって。

4月23日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙2.1-5から「知恵と知識はキリストのうちに」と題してメッセージです。

イエスはよみがえられた

2023年4月2日(日)

今日はイースター礼拝です。イエス様が復活されたことを喜び祝います。イエス様の復活は、イエス様が復活された、ということだけではなく、私たちも復活することのしるしです。天授ヶ岡教会では、天に召された方々のお写真を並べてイースター召天者記念礼拝をおささげしています。4月9日(日)の礼拝はルカの福音書24.1-12から「イエスはよみがえられた」と題してメッセージです。

墓に行った女性たち

 金曜日に十字架にかかられたイエス様はその日のうちにお墓に納められ、女性たちは安息日が終わった週の初めの日(日曜日)の朝早く、香料をもってお墓に向かいます。イエス様のご遺体に香料を塗るためです。当時はこのようにして葬っていました。

女性たちは当たり前のようにして、香料をもってイエス様のお墓に行きます。お墓にイエス様がおられると思っているからです。人は死をどうすることもできない。それがこの女性たち、そして私たちが体験的に知っていることです。女性たちは十字架刑に処せられたイエス様に何の希望も期待もなくお墓に向かいます。

よみがえられたイエス様

 しかしこのイースターの朝、驚くべきことが起こります。十字架を見、お墓に入れられたのも見た女性たちに、天使たちが現われ、イエス様が復活されたことを告げます。

イエス様が復活されたということは、死の力に、神の力が打ち勝ったことの究極のシンボルです。そしてその力はイエス様だけではなく、私たちにも与えられており、私たちも復活する望みをいただいているのです。

伝えた女性たち

天使の言葉を聞き、女性たちは①イエス様のことばを思い出し、②自分が見た出来事を弟子たちに伝えました。初めは弟子たちにもたわごとのように思われました。弟子たちも当たり前に死を受け入れているからです。しかし、神は事実、キリストをよみがえらせたのです。

私たちはそれでもやっぱり死の力を信じるでしょうか。それとも女性たちに起こったことを信じますか。教会は2000年間キリストの復活を叫んでいます。

4月16日(日)の礼拝は、コロサイ人への手紙1.24-29から「奥義を伝えます」と題してメッセージです。

十字架での言

2023年4月2日(日)

今日は棕櫚の聖日で、イエス様がいよいよエルサレムに入られたことを記念する日です。今日から受難週に入ります。イエス様は十字架にかかられ、七つの言葉を残しましたが、そのうちの第一言、第二言、第七言をルカは書き記しています。4月2日(日)の礼拝はルカの福音書23.32-49から「十字架での言」と題してメッセージです。

第一言

 十字架にかかられ、まずイエス様が言われたこと。それは「父よ、彼らをお赦しください」という祈りの言葉でした。イエス様はいつも、十字架におかかりになる前も祈っておられましたが、このときも祈られました。このとき、イエス様の周りにいた「彼ら」とは、イエス様を十字架につけ、着物をくじで分ける人たち、ただ立って眺めている民衆、あざ笑う議員たち、そして嘲る兵士たち。そんな彼らのためにイエス様は祈られたのでした。それはイエス様の近くにいながら、自分のことばかり考えている、自分が何をしているかが分かっていない私たちのための祈りです。

第二言

 イエス様をあざけっていたのは、十字架の下にいた人たちだけではなく、一緒に隣の十字架につけられていた人もでした。しかしもう一人の人はそれをたしなめ、イエス様が御国に入られるときには私を思い出してくださいと言います。一緒に御国に入ると願うこともできない、自分なんかが入れるわけがない、そんな彼にイエス様は「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいる」と約束されました。イエス様は罪人を見捨てられません。彼は十字架にかけられるほどの罪を犯していながら、イエス様は彼をパラダイスに伴われました。

第七言

イエス様の最期の言葉もまた「父よ」という祈りでした。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」ユダヤ人や議会、ピラトや兵士たちがイエス様を十字架にかけて殺したようで、そうではなくすべてのことを神様が導いておられたことをこの一句は表しています。

自分で何をしているか分からない、自分の罪深さも分からない私たちのためにも、ひとり子をささげ、十字架にかかられた主の愛に感謝します。

4月9日(日)の礼拝は、ルカによる福音書24.1-12から「イエスはよみがえられた」と題してメッセージです。


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