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主に感謝することは良いことです

2023年12月31日(日)

一年最後の日を迎えました。今日は年末感謝礼拝です。詩篇92篇には「賛歌。安息日のための歌」と書かれていますが、詩篇90、91篇とバビロン捕囚というつながりの中で、ようやく解放されて礼拝できる喜びが歌われています。12月31日の礼拝は、詩篇92.1-16から「主に感謝することは良いことです」と題してメッセージです。

安息日は感謝がふさわしい

 ここには、朝も夜も、楽器で主に感謝をささげている姿が描かれ、主の御名をほめ歌う喜びと楽しさが伝わってくるようです。主がなさったことや御手のわざが賛美されています。

私たちはこの一年どういう気持ちで礼拝をおささげしたでしょうか。感謝をもって喜んで礼拝したときもあれば、不安や嘆きの中で主を見上げたこともあったと思います。

しかしこうして礼拝に集うことで、歴史を通して確かに働かれた神に出会い、兄弟姉妹の生活のただ中に証しされる主を仰ぎ見ます。そのときに、確かに今も生きておられ、守っていてくださる主に目を向けていくことができます。

主のみわざの大きさを認める

主に感謝ができないのは、もしかしたらあまりにも、狭く、近く、物事を見すぎているからかもしれません。主は永遠にいと高きところにおられるゆえに、主のみわざは大きく、御思いは深いです。もっと大きな祝福の計画のうちに主が進めておられても、「無思慮な者は知らず、愚か者にはこれが分かりません。」(9)

今は分からなくても、さまざまな出来事を神様は愛と祝福の内に持ち運んでおられることを信じましょう。

感謝を生い茂らせる

無思慮で愚か者とは対照的な人の姿が「正しい者」(12)として記されています。バビロン捕囚という背景からその人は植物に例えられ、再び主の家に植えられる祝福が描かれます。彼らは何もできないと思われる年老いたときでさえなお、実を実らせ、青々と生い茂ると言われます。もし信仰が何かできることならこうならないでしょう。しかし感謝することであれば、生い茂らせていくことができます。感謝を生い茂らせながら、この一年も終えられますように。

1月7日(日)の礼拝は、出エジプト記23.1-19から「心を知る」と題してメッセージです。

この方こそ主キリスト

2023年12月24日(日)

本日はクリスマス礼拝です。教会も飾り付けをしていつもよりウキウキ、ワクワクしますが、今日の聖書の舞台は夜です。真っ暗な夜。それは私たちの心を象徴しているようです。悲しく辛い出来事から夜のように感じたり、あるいは誰にも触れられたくない、聞かれたくない過去や傷が心の闇になっていたり。しかしそのような真っ暗な夜に神様の光が差した、これがクリスマスです。12月24日の礼拝は、ルカの福音書2.1-20から「この方こそ主キリスト」と題してメッセージです。

場所のないイエス様

 皇帝の命令で住民登録をすることになったヨセフとマリアはベツレヘムへと向かい、そこでイエス様はお生まれになります。しかしイエス様が生まれて寝かされたのは飼葉桶でした。その理由は「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」です。これは単に宿屋が満室だったというよりも、人の心の状態ではないでしょうか。すなわち、救い主イエス様をあなたの心にお迎えする場所はありますか?ということです。

イエス様をお迎えし、仕えた人たちは、平和とゆとりの内に過ごします。忙しく日常生活で慌ただしいとき、そこにイエス様の「場所」はあるでしょうか。

羊飼いに会われたイエス様

イエス様の誕生はまず羊飼いに知らされます。エサのために町に住むことも、神殿で過ごすことも、社会生活を共にすることもできない人たちなのに、です。それはイエス様に会うことができない人はいないということです。彼らは「恐れることはない、あなたがたのために救い主が生まれた」と聞きます。イエス様はあなたのために生まれました。信じられますか?羊飼いもそう思ったでしょう。しかし聖書は告げます。「あなたのために生まれた。あなたのために来た」と。

飼葉桶に寝かされたイエス様

イエス様が生まれて飼葉桶に寝かされたことはここに三度も書かれます。すべてのものを持ち、権力と権威の源であるお方が飼葉桶に寝かされたのは、紛れもなく私たちのためです。私たちと共にいるためにすべてを捨てて低くなられたのです。神であるお方が人として生まれ、場所もなく、飼葉桶に寝かされ、羊飼いに告げられた。それは私のためであると驚きと感動をもって信じます。

12月31日(日)の礼拝は、詩篇92.1-15から「主に感謝することは良いことです」と題してメッセージです。

神の深いあわれみ

2023年12月17日(日)

口がきけなくなっていたザカリヤでしたが、「その子の名はヨハネ」と書き記した瞬間、ものが言えるようになり神様を賛美しました。このザカリヤの預言は「ほむべきかな」で始まるので「ベネディクトゥス」(ラテン語)と呼ばれています。ここでザカリヤは神様の救いとヨハネの使命について語ります。12月17日の礼拝は、ルカの福音書1.67-80から「神の深いあわれみ」と題してメッセージです。

神が私のところへやってきた

 なぜ主は「ほむべきかな」なのでしょうか。それは「主がその御民を顧みて」くださったからです。この顧みるという言葉には「見る」という意味が込められていますが、実は同じ言葉が78節の「訪れ」にも使われています。神様はご自分の民を見ていてくださる。見て訪れてくださる、だからほむべきかなとザカリヤは賛美したのです。

待降節、私たちは何を待つかと言えば、神様が私を訪れてくださった出来事(クリスマス)、そして再び訪れてくださることを待つのです。

敵の手からの救い

神様はご自分の民を顧み、敵の手から救うとザカリヤは預言しました。敵とは何なのでしょうか。74節を見ると、「敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる」と言っています。つまり、敵は恐れなく主に仕えることを阻んでいるのです。

恐れなく、すべての日々において敬虔に、正しく主に仕えているか?と問われると顔を上げることもできない自分がいます。しかし、主に仕えるとは、特別な何かではなく、主と共に喜んで生きること。それを阻むような不安や恐れ、疑いや心配こそ、敵ではないでしょうか。主はここから救い出してくださるのです。

暗闇から平和の道へ

そしてヨハネこそ、このことを気付かせるために主に先立って遣わされたのです。私たちは教えられなければ、こうしたことも分からない暗闇の中にいます。しかし神の深いあわれみは、そんな私たちを訪れ、闇の中にいる私たちとそこから救い出してくださる主を照らし、神様と共に生きる平和の道を歩ませます。この私たちの姿を通して、共に平和の道を歩む方が起こされますように。

12月24日(日)の礼拝は、ルカの福音書2.1-20から「この方こそ主キリスト」と題してメッセージです。

静かな目撃者

2023年12月10日(日)

ザカリヤが神殿で御使いに会ったとき、ザカリヤは神殿で仕える祭司であり年寄りでありました。他の人達よりも多く聖書を学び、長い間たくさんの祈りをささげてきたことでしょうが、いざ神様から「男の子が生まれる」と告げられたとき、ザカリヤは口がきけなくなります。時が来れば実現する神の言葉を信じなかったからです。ザカリヤは話すことができないまま、いよいよその「時」を迎えたのが今日の場面です。12月10日の礼拝は、ルカの福音書1.57-66から「静かな目撃者」と題してメッセージです。

いいえを言ったエリサベツ

 エリサベツは超高齢でありながら無事男の子を出産します。八日目、慣習に従って割礼と命名をします。当時は父親の名前にちなんで名づけられるのが至極当然のことで、近所の人や親族はザカリヤとつけようとします。しかしエリサベツは答えます。「いいえ!名はヨハネとしなければなりません。」そして父親であるザカリヤも「その子の名はヨハネ」と言います。これまでの慣習よりも、周りの人の意見よりも、神に従う二人は、神様の言われたことを選びました。

いいえを言い表したザカリヤ

二人が受け入れたのはヨハネという名前だけではありません。御使いから語られていたヨハネの使命も受け止めたのです。祭司の家系に生まれたから祭司というしきたりにもいいえ、を言ったのです。ヨハネと名づけることで、生まれてきたヨハネを自分の思い通りにするのではなく、神様のこどもとして受け止めたということを言い表しているのです。

それは静かな時間で

ザカリヤがこのとき聖書の言葉を思い巡らしていたことは後の賛歌から伺えます。ザカリヤはあのとき信じなかったから罰として口がきけなくされたのでしょうか。他の人の声が全く聞こえない、神様との会話の中で、きっとザカリヤは「あなたの不安や戸惑いもわかっている。でもわたしのことを信じてほしい。わたしを見ていてほしい。あなたの祈りをおぼえている(ザカリヤ)。わたしは情け深いから(ヨハネ)。」こうしてザカリヤは神様のことばを受け止める時間と信仰を与えられたのです。罰ではなく、ザカリヤにこの神様の言葉だけを聞かせるためだったのです。主よ、私にもあなたの声を聞かせてください。

12月17日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.67-80から「神の深いあわれみ」と題してメッセージです。

神がわたしに目を留める

2023年12月3日(日)

今日は待降節第一週の礼拝です。英語ではアドベントですが、そこから派生した言葉にアドベンチャーがあります。予期せぬ出来事や冒険という意味です。今読んでいるエリサベツとマリアはまさに約二千年前、予期せぬ出来事に直面した人たちです。予期せぬ御使いとの出会い、予期せぬお告げにひどく戸惑い、考え込んでマリアですが、今日のところではエリサベツに幸いな人と呼ばれ、自分自身も幸いな者と言っています。それはなぜでしょう。12月3日の礼拝は、ルカの福音書1.38-56から「神が私に目を留める」と題してメッセージです。

語られたことが実現するから

 エリサベツは突然のマリアの訪問を喜び、聖霊に満たされてマリアを「私の主の母」と呼びます。そしてまだお腹の大きくなっていないマリアに向かって「信じている人は幸いです。神様が語られたことは必ず実現するからです」と言いました。エリサベツは自分の理解や見ていることを越えた神様のわざをマリアに見ました。マリアは語られたことが実現すると信じていると分かったのです。

神様は日々に、聖書を通し、人の言葉を通し、私たちに語りかけてくださっています。神様は必ず実現する言葉として私たちに語っていてくださるのです。

目を留めてくださったから

それを受けてマリアは主に賛美をささげます。それはこんな卑しいはしためにも神様が目を留めてくださったからです。私たちが買い物に行ってやはり目を留めるものがあります。神様は私たちをまるで他の人などいないかのように私を、あなたを見つめます。神様の目は私に、あなたに注がれます。どこにでもいそうな平凡な女の子であるマリアに神様は目を留め、大きなことをしてくださった、だから幸せだと賛美するのです。

マリアは自分の小ささを知っていました。同時にそれは神様がどれほど偉大なお方であるかを知ったのです。神様はご自身の偉大さを私たちに教え、私たちは自分が小さい者にしか過ぎないことを知っていくのです。

主はいつまでもあわれみを忘れておられない

マリアはこの出来事を自分のことだけだと思わず、アブラハムとその子孫に対するあわれみだと受け取りました。この世界大のわざのために神様は私たちに目を留められました。へりくだるアドベントとなりますように。

12月10日(日)の礼拝は、ルカの福音書1.57-66から「静かな目撃者」と題してメッセージです。


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