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クリスマス礼拝&祝会のご案内です

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例年は、クリスマス礼拝を教会礼拝堂で、クリスマス祝会を幼稚園二階で行っていましたが、今年は礼拝も祝会も教会礼拝堂で行います。礼拝はキャンドルを灯して、祝会はカフェスタイルで行います。

神の家に住まう者へ

子どもの頃、聖書カルタをプレゼントされました。「い」で始まる読み札が「石を枕に夢の中」。取り札は男の子か青年男性かが、石を立てて光が差す天に向かって礼拝をしている姿が描かれていました。それがヤコブでした。しかしこの出来事があったのは、エサウが40歳で結婚した後、ヤコブがエサウの祝福をイサクから騙し奪い取る事件があった後。ヤコブはおじさんでした。「箱入り息子」「かわいい子には旅をさせろ」ではないですが、家(天幕)にいることの多かったヤコブが家におられなくなって旅に出た、最初の出来事から神様の語りかけに耳を傾けたいと思います。ということで、11月26日(日)の礼拝は、創世記第28章10節〜22節から、「神の家に住まう者へ」と題してメッセージでした。

神の祝福への招き
『さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た』。『一つのはしごが地の上に立っていて』は『先端が天まで達する階段が地に向かって伸びて』(新共同訳)、『一つのはしごが地に向けて立てられている』(新改訳)となっています。下からかけられたのでなく、上から下ろされたはしご。神様はヤコブに語られます。『わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう』。これでもか、これでもか、これでもかーっ!と祝福と約束の念押し。共にある神にまさるものなし。祝福は上から下へ、神様からアブラハムへ、イサクへ、ヤコブへ、私へ、あなたへ流れ下るのです。神様に選ばれていない人はいません。神様の祝福の招きに漏れる人はありません。しかしその祝福を自分のものにするためには、その招きに私たちがどう応答するかにかかっているのです。

神の招きへの応答

『ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」…「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」』。「〇〇してくれたら、俺の神としてやる」みたいな上から目線な言葉にも聞こえます。しかしヤコブは神様の言葉を一つ一つ丁寧に拾って答え、神様の言葉を根拠に求めているのです。神様はヤコブにとっても、私にとっても、全人類にとっても最初から紛れもない神様です。しかし神様と共に様々な経験を経る中で、ますます近しくなり、親しくなり、「私の神様」になる。親子の関係も友人との関係も共に様々な経験を経る中で深まるのと同じです。神様の祝福を自分の知恵や力でものにしたいと執念を燃やすヤコブ。その癖はなかなか治りませんでしたが、神様の言葉に根拠を置いて神様に求め続けることもやめませんでした。だから神様もとことんヤコブに向き合い、彼を造りかえ、長い旅を経て、イサクの家へと導き帰されました。それだけではありません。ヤコブは父祖たち同様、地上では旅人でしたが、ついには神の家に住まう者へとされたのです。

キリストによって完成された神様の救いと祝福の招きは全ての人に差し出されています。それを受け取るなら、神様は私の父なる神様となり、私は神の子となります。そして地上の旅の間、その関係は深められ、神の家に住まい、神の国を相続するに至るのです。

12月3日(日)は待降節第一週礼拝。イザヤ書第7章1節〜17節から、「神の約束を信じて」と題してメッセージです。

天授ヶ岡幼稚園の収穫感謝祭でした

11月24日(金)は天授ヶ岡幼稚園の収穫感謝祭が教会の礼拝堂で行われました。

6月の花の日礼拝以来。よく来て下さいました。

たくさんの果物。野菜はすでに昼食の準備にまわっていて、大根が野菜の代表として飾られました。

パネルシアターで、「この帽子はどんな仕事の人の帽子?」をあてっこです。

たくさんの収穫と美味しい食べ物を神様に感謝し、皆さんの祝福をお祈りしました。

収穫感謝祭の最初に「わたしにつながっていなさい」というお話しをしました。

ぶどうの実は枝につながっています。枝は木の幹につながっています。木の幹は地面に根を下ろしています。そして地面の栄養を根が吸い上げ、幹から枝へ、そして実へと運ばれて、実は段々、段々、段々大きくなります。

イエス様は『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる』。イエス様は神の子、救い主、みんなを愛して、守って、天国まで導いて下さるお方。そのイエス様がぶどうの木。私たちはその枝。どうやってつながる?

イエス様の言葉によく聞いて行うことがつながること。みんなは幼稚園の先生の言うことをよく聞いて、言われたように行いますよね。それは先生とみんなが、先生の言葉でつながっている、ということです。先生は「先生の言うことをよく聞いてよく行えたね。嬉しいよ。偉いよ」ってほめて下さいますね。そうやってみんなは少しずつ成長します。

イエス様とつながるのも同じ。イエス様の言葉によく聞いて、その通り行っていくと、泣いている人を慰めたり、困っている人を助けたり、いじめられている人を守ったり、みんなと仲良く遊んだり、お勉強したり、お仕事したり、段々、段々、段々いろんなことができるようになっていきます。イエス様も喜んで下さいます。みんなも素敵なお兄さん、お姉さんに成長します。それが豊かに実を結ぶということです。イエス様にしっかりつながって豊かな実を結んで下さい。イエス様の言葉によく聞いて行って豊に成長して下さい。祝福をお祈りします。

祝福を私物にする家族

祝福はアブラハムからイサク、さらにエサウとヤコブへ引き継がれようとしていました。しかしエサウとヤコブ誕生の時、二人はリベカのお腹の中で押し合いしました。生まれてからは、鹿肉を獲ってきてくれるエサウをイサクは愛し、天幕にいて料理もするヤコブをリベカは愛しました。さらにエサウは長子の特権を、腹がへったからと言って、ヤコブが作った赤いレンズ豆の煮物と交換しました。どことなくギクシャクしている家族。祝福の焦点がぼやけている家族。大丈夫か?ということで、11月19日(日)の礼拝は、創世記第27章1節〜第28章9節から、「祝福を私物にする家族」と題してメッセージでした。

祝福を人から騙し奪う人

イサクは晩年になりエサウを祝福しようとします。鹿を狩り料理し持ってくるように言います。それを聞いたリベカは、子ヤギの料理をヤコブに持たせ、子ヤギの皮とエサウの晴れ着をまとわせ、祝福を奪いに行かせます。ヤコブはばれると呪いを受けると心配しますが、リベカは呪いは自分が受けると言います。イサクは目が見えなくなっていたので触って確かめます。声はヤコブと思いつつもエサウの祝福を与えてしまいます。その後、エサウが帰って料理を持ってきますが、イサクは震えわななき、祝福とも呪いともつかない言葉を発するだけ。祝福とは騙し奪ったり、誰かを不幸に陥れたり、自分が呪いを受けて誰かに渡すような、そんな小さなものではありません。神様は偏愛されるお方でもありません。エサウを祝福しヤコブも祝福できるお方。神様はそれぞれに違う個性を与え、尊重し、ふさわしい祝福を用意しておられます。ですから私たちがまずすべきは、自分に用意された祝福を、神様に求めることなのです。

祝福を人から求める人

エサウはヤコブに騙され、長子の特権の件も合わせて怒り倍増。エサウは激しく泣き叫びイサクに祝福を求めますが、イサクはもはや祝福を与えることはできませんでした。エサウはいつも目先のことばかり。人ばかり。長子の特権の件もそう。生涯保証である長子の特権を一時の空腹を満たす食べ物にかえました。エサウの妻たちもそう。目の前の気に入った女性を妻にし、両親を悩ませているとわかり、ヤコブがリベカの故郷に妻をめとりに行くと聞いて、親戚のイシマエル一族から妻を迎えます。エサウはイサクが好きでした。イサクに認めてもらいたかった。そしてイサクもエサウが好きでした。いや、エサウが獲ってくる鹿肉が好きだった。しかし祝福は、人間的な考えや好みで得られるものではないのです。また簡単に交換できるものではないのです。神様あっての長子の特権、神様あっての結婚、神様あっての祝福なのです。ですから私たちがまずすべきは、自分に用意された祝福を、神様に求めることなのです。

祝福の神に目を向ける人

リベカは潜在的な家庭内不和を顕在化させ悪化させました。しかし彼女は、それを子どもたちの結婚問題にすり替えます。ずる賢いリベカ。ヤコブはリベカ似?エサウからヤコブを守るため、ヤコブをリベカの故郷へ妻をめとりに行かせるようイサクに進言します。このことは図らずも、この夫婦を祝福の原点に引き戻しました。『全能の神が、あなたを祝福し、多くの子を得させ、かつふえさせて、多くの国民とし、またアブラハムの祝福をあなたと子孫とに与えて、神がアブラハムに授けられたあなたの寄留の地を継がせてくださるように』。『全能の神が』『神が』と戻るべき焦点がはっきりしました。イサクとリベカは、ヤコブをリベカの故郷へ送り出した、というよりも神様の前へ送り出した、と言えるのです。親が子の祝福を願うのは当然かも知れません。しかし子は親の私物ではありません。子もまた神様の前に、独立した、ユニークで、尊厳ある存在。ですから親が子の祝福を願うなら、親も子も、それぞれが神様に、それぞれの祝福を求めるべきなのです。祝福は分かち合えるほど豊かに与えられます。奪うのではなく分かち合う。私物にするのではなく共有していく。そうすることによってアブラハムから始まった神様の祝福は、私たちの内を流れ、外へ広がり、周りを豊かにしていくのです。

11月26日(日)の礼拝は、創世記第28章10〜22節から、「神の家に住まう者へ」と題してメッセージです。

 

共にある神にまさるものなし

メーテルリンクの「青い鳥」は、幸せとは何かを問いかけます。意外にも身近にあるものだと教えてくれます。私たちは幸せという言葉から様々なことをイメージし、求めているのではないでしょうか。そして祝福という言葉もまた似ているのではないでしょうか。人それぞれにイメージすることが、求めるものが違うように思えます。祝福とは?祝福はどこにある?ということで、11月12日(日)の礼拝は、創世記第26章1節〜35節から、「共にある神にまさるものなし」と題してメッセージでした。

共におられ守られる神様

『アブラハムの時にあった初めのききんのほか、またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った』。祝福の基アブラハムの祝福の子、イサクの物語です。『初めのききん』とはアブラハムが故郷を離れ、カナンの地に来た時、最初に見舞われたききんのこと。アブラハムはエジプトに下り、「私の妹は実は妻」事件を起こし追い出されました。神様はイサクにエジプトに下ってはならい、あなたがこの地にとどまるなら祝福すると、約束されました。そこでイサクはゲラルに住みました。ここはアブラハムが二度目のききんの時、身を寄せたアビメレクが治める土地でした。ここでもアブラハムは「私の妹は実は妻」事件を起こしましたが、イサクもまた妻リベカを妹だと言います。お父ちゃんと同じ!でもアブラハムの時に痛い目に遭ったアビメレクは違いました。イサクの嘘を見抜き、正し、イサクに保護を与えたのです。

何事も祝福に変えられる神様

『イサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得た。このように主が彼を祝福されたので、彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり、羊の群れ、牛の群れ及び多くのしもべを持つようになったので、ペリシテびとは彼をねたんだ』。アビメレクは土地を自由に使わせたようです。イサクが余りにも富み栄えるので、地元住民はねたみ、アビメレクは治安と互いの利益を守るために、イサクに退去を願います。イサクはゲラルの谷に移動。谷だから水があるとは限りません。イサクは井戸を掘ります。すると地元住民が所有権を主張。そこでイサクは別の井戸を掘る。また地元住民が所有権を主張。またイサクは別の井戸を掘る…。豊作でも、財産が増えても、みんなのために井戸を掘っても、ねたまれ、問題が起こり、悩みが尽きない。しかし神様は言われます。『あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう』。

祝福にまさって見える神様

イサクの元にアビメレクたちがやってきてこう言います。『われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ましたので、いまわれわれの間、すなわちわれわれとあなたとの間に一つの誓いを立てて、あなたと契約を結ぼうと思います。…まことにあなたは主に祝福されたかたです』。イサクは少々感情的に食ってかかります。無理もない。労苦と忍耐の連続ですから。しかしイサクの営みをずっと見ていたアビメレクたちは、神様がイサクと共におられることがわかったのです。共におられる神様にこそ祝福がある、とわかったのです。イサクの収穫や財産だけを見てそう言うのではありません。イサクの弱さや労苦の中にも変わりなくおられる神様と、その祝福を見たのです。今回、神様の言葉はあっても、直接の介入は記されていません。では神様は何もしておられないのか?私たちは神様を映し出す神のかたち。祝福は神のかたちの営みを通して神様の命とご支配と愛を地に広げていくこと。神のかたちの営みを通して神様は働かれるのです。アビメレクのイサクへの保護や自由の付与も、イサクの労苦による収穫や井戸掘りも、神様の祝福の現れなのです。

共にある神にまさるものなし。神様あっての祝福。神様に向いて聞いて従う私たちの日常生活が祝福の営み。そこには労苦や忍耐があります。人間的な弱さや問題もあります。だからといって祝福は色あせない。逆に弱さや問題があればあるほど、神様の臨在と祝福は際立つのです。神様に信頼しつつ、日々の出来事に丁寧に向き合ってまいりましょう。

11月19日(日)の礼拝は、創世記第27章1節〜第28章9節から、「祝福を私物にする家族」と題してメッセージです。

祝福のリレー

運動会のリレー。勝敗は最後までわかりません。バトンを持つ者は自分の走りに全力を尽くします。バトンを待つ者は「ここにいるよ!」とアピールします。そうやってバトンはアンカーまで渡され、アンカーがゴールテープを切った時、そこで初めてチーム全員が勝利の喜びにわき返ります。最初の者も、途中の者も、最後の者も共に等しく喜びを分かち合います。聖書の祝福の物語もこれと似ています。ということで、11月5日(日)の礼拝は、創世記第25章1節〜34節から、「祝福のリレー」と題してメッセージでした。

祝福のバトンを示す終活

25章は祝福の広がりと継承がテーマです。ここでアブラハムはケトラという女性と結婚したことがわかります。妻サラが死ぬ前だったのか死んだ後だったのかはわかりません。聖書はケトラによるアブラハムの子孫がエジプトの東南地域に広がったことを記します。さらにハガルによるアブラハムの子イシマエルの子孫がエジプトの東地域に広がったことを記します。これらの子孫は後にヨセフやモーセの物語で重要な役割を果たします。祝福は徐々に広がりを見せていました。アブラハムは神様から祝福のバトンを託された人でしたが、175歳で地上の人生を閉じました。75歳から100年間、祝福のバトンを持って走り続けたと言えます。その葬りに立ち会ったのはイサクとイシマエル。聖書には記されませんが、イサクの息子たちエサウとヤコブも立ち会ったはずです。すでに15歳になっていましたから。この時、アブラハムの子も孫もアブラハムの何を見たか?神様から託された祝福のバトンではないか?次は私が祝福のバトンを託されたと自覚したのではないでしょうか。私たちにもアブラハムのような弱さや愚かさがあります。しかし神様はそれを覆って余りある祝福のバトンを託して下さいます。私たちも死の間際まで変わらずに、祝福のバトンを示す者とさせていただきたい。それが私たちの終生の活動なのです。

祝福のバトンを受けつぐ者

アブラハムの葬りの後、時間的には前後しますが、イサクの子どもたちの誕生が記されます。イサクの妻リベカは双子を生みます。兄エサウは赤くて毛深く、その意味のエサウと名づけられます。弟ヤコブはエサウのかかとをつかんで出てきたので、その意味のヤコブと名づけられました。しかし「だます」という意味も隠れていたり。『さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた』。しかしヤコブは一見穏やかに見えて、実は決して穏やかでなく、周りを穏やかにさせないくせ者でした。しかしこの『穏やかな』という言葉は「完全な」とも訳せます。どこがやねん?かつてノアは「全き人」と記され、神様はアブラハムに「全き者であれ」と言われました。ノアもアブラハムも完璧な人という意味では完全ではありません。聖書が言う完全な人とは、神様に向いて聞いて従う人、神様の恵みに生きる人、そして神様の祝福にまっしぐらな人です。ヤコブは神様の祝福にトコトンこだわり、ひたすら求める人だったのです。その兆候が早くも現れました。ヤコブは兄エサウの長子の特権に目をつけて、エサウが腹を空かせて帰ってきた時、自分の作ったスープと引き替えに長子の特権をまんまと手に入れました。ヤコブは自分の力で神様の祝福をものにしようと執念を燃やしていきます。それは決して正しい求め方ではありません。しかし祝福のバトンを誰よりも意識していました。だから神様もヤコブにトコトン向き合い、じっくり取り扱っていかれます。私たちはヤコブの間違った求め方ではなく、そのひたむきさに学びたい。神様の祝福を求めて止まないひたむきさ。それが祝福のバトンを受けつぐ者の普遍的な姿なのです。

アブラハムやヤコブたちと共に、新しい天地における祝福を一斉にいただく喜びの日を楽しみに、私たちも信仰の馳せ場をひたむきに走らせていただきましょう。

11月12日(日)の礼拝は、創世記第26章1節〜35節から、「共にある神にまさるものなし」と題してメッセージです。


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