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悔いられる神様

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後悔とは「思っていたよりも満足ではなかった」「失敗だった」ということでしょうか。創世記第6章6節には「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め」とあります。神様は私たち人間を「思ったよりも満足でないもの」「失敗だった」と悔いておれるのでしょうか?神様が完璧なら後悔も失敗もないのではないですか?それとも神様は完璧ではないのでしょうか?ということで、9月25日(日)の礼拝は、創世記第6章1節〜12節から、「悔いられる神様」と題してメッセージでした。

祝福が流れない

「神の子たちは人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった」。「神の子たち」はアダム、セツと続く、神様に向いていた人たちです。「人の娘たち」はカインに続く、神様に向かなくなった人たちです。神様ははじめ、人間を「神のかたち」として創造し祝福されました。そしてアダムへエバを連れてこられました。アダムは「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と喜びました。私たちの祝福は、神様に向いて、神様が与えてくださるものを受け取るところにあります。神様は伴侶に限らず、見た目だけではなく見えないところも含めて、他に換えることのできない、私に最もふさわしいものを与えてくださいます。しかし「神の子たち」も神様に向かなくなり、見た目だけ、自分の好みだけで、あれが祝福だ!いや、これが祝福かも!と自分勝手に選び取るようになりました。しかし祝福は神様から流れるもの。それを知っていながらあえてしない人間の姿を見て、神様は残念で仕方ありませんでした。

祝福が広がらない

「そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった」。カインの子孫から権力者が出ました。文明が生まれました。そしてネピリムが現れました。ネピリムは巨人だったともいわれ、能力にも秀で、名を馳せました。「有名な人々」とは、その名があがめられ、人々がその名の下に集まってくるという意味合いがあります。「神の子たち」はかつて「主の名」を呼び求めました。しかし今や人の名を呼び求め、人に群がるようになりました。祝福は神様の命、支配、愛の素晴らしさを地に広げていくことでした。そのために人間には素晴らしい能力が与えられていました。しかしその能力を自分が生き残るために、自分に人々を引きつけるために用いるようになっていました。神様から人間へ祝福が流れないばかりか地に広がらず、人間が祝福を失っていく姿を見て、神様は残念で仕方がありませんでした。

逆に破滅が満ちる

「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」。「乱れる」とは「破滅する」という言葉です。祝福を広げるための能力は、的が外れた使い方によって、悪と暴虐を広げ、全てのものを破滅させていました。最高の存在として創造された人間が、祝福を広げるはずの人間が、悪の源泉となり、害毒を地にまき散らしている、まさに「生き地獄」の状態。今の世界はどうですか?もしこのままで不死が実現したらどうなるでしょう?私たちは世の中に悪がはびこれば「何とかしないと」と心を痛めないでしょうか。悪いことをした人をもばっさり切り捨てないで「何とかやり直してほしい」と思わないでしょうか?神様は私たち以上に「生き地獄」のような悲惨な世界を何とかしようと思われたのです。

後悔、それは愛と祝福の更新

「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。…わたしは、これらを造ったことを悔いる』と言われた。しかし、ノアは主の前に恵みを得た」。神様は確かに「ぬぐい去ろう」と言われました。「ひどい!愛がない!残酷だ!」と思われますか?神様はこの一言を言うために悩み苦しまれました。神様は人間を「神のかたち」というほどに最高の存在として造られたのです。だから惜しくてたまらない。残念でならない。そして愛がなければ苦しまない。躊躇することもない。さっさとリセットすればいい。しかし他に換えることができない。一から造り直してもやっぱり人間しかあり得ない。失敗ではなく最高なんです!しかし人間が自ら破滅していた。生き地獄だった。神様がされたのは救いを与えること。破滅からの救い、生き地獄からの救い、それが箱舟。ノアはその時代の中にあって、神様に向き、神様の恵みを受け取っていました。一筋の光。一縷の望み。神様はノアを通して人々を救う道、祝福が流れる方法を用意されたのです。

神様の後悔は「失敗だった」ではなく、「最高なんだから何とかしたい」「私の元に帰る道をどうつけようか」「祝福するにはどうすればいいか」という「更新」の時だったのです。神様に失敗はありません。失敗とは全てがそこで終ること。神様はあきらめない。続きがある。神様は私たちがどんな転び方をしても、それに合わせるようにして、祝福をなし遂げられるお方。目的はぶれずにやり方や方法を更新する柔らかさのあるお方。決めたことを変えられずに硬直して突き進むような神様ではありません。そんな神様を映し出す私たち「神のかたち」も、その柔らかさがあるはずです。私たち一人一人は神様に造られ、神様に愛されています。もしあなたが神様に向いていないのなら、神様はをあなたを惜しんでおられます。悪を消し去っても、あなたが消え去るのは忍びない。あなたに換わる存在はありません。あなたはあなたでしかやり直せない。破滅している自分に気づいたなら、神様に向きを変える。そして再び神様を映し出す存在となる。悔いたなら改める。これこそ悔いる神様を映し出す「神のかたち」の最も美しい姿です。ノアのように、神様に向いて、神様が与えてくださる救いと祝服をいただいて、神様と共に歩ませていただきましょう。

10月2日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第3章9節〜17節から、「私たちの劇的ビフォーアフター」と題してメッセージです。

私を持ち運んでくださる神

バージョン 2

9月18日(日)の礼拝は、年長者祝福礼拝。イザヤ書第43章1節〜7節、第46章4節から「私を持ち運んでくださる神」と題してメッセージでした。人生と信仰の先輩である兄姉を敬い、感謝を表すと共に、お互いを敬い合うために聖書に耳を傾けました。

私たちは神に愛されて創造された

「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。』」「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに」。神様は私たちを創造し、造り、あがなってくださいました。その動機は愛です。「創造し」とは無から有を生み出す言葉。「私」という人格は私が誕生するまでこの世に存在しませんでした。私は無から生み出された唯一無二の存在です。「造られ」とは有る材料から形作る言葉。私たちの体は地球上に有る物質でできています。そういう意味では私たちはみな同じ。平等です。さらに「あがなった」とは神様との関係を回復する方法です。最初の人、アダムとエバは自ら神様との関係というパイプを外してしまいました。いわゆる原罪です。的外れ状態。だから後に続く私たちも最初から外れた状態で生まれるようになりました。しかしそれは私たちの側のこと。神様の側からすれば、アダムもエバも私たちも同じように丹精込めて最上の存在として創造し造られました。さらには神様との関係を回復するあがないまで用意してくださったのです。

私たちは神によって仕立てられる

「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」。神様は創造し、造り、あがないを用意するだけではなく、仕立ててもくださいます。「仕立てる」とは「完成する」という言葉です。「仕立屋さん」はその人にぴったりな服をオーダーメイドしてくれます。ぴったりでなければ肩はこる、腕はしびれる、仕事がはかどりません。でもぴったりなら軽く感じる、疲れない、仕事がはかどります。また年を経ると体型が変わるかもしれません。仕立屋さんはその都度仕立て直してくれます。神様は、私たちを神様の名をもってとなえられる者として、神様の栄光を現す者として創造し、造られただけではなく、もっと神様の名をもってとなえられる者となり、もっと神様の栄光を現す者となるために、仕立ててくださり、生涯かけて完成してくださるのです。

私たちは神によって運ばれる

「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」。イザヤが生きた時代、イスラエルの人々は木で造った偶像を礼拝する罪を犯していました。自分が切り出した木の一部を神様に、一部を食器に、一部を薪に使っていました。何かあったら偶像を背負って運び出し、何かあったら偶像に「私を助けて下さい」と拝んでいました。しかし神様は、背負われるような神ではなく、私こそがあなたがたを創造し、造り、あがない、仕立て、背負い、生涯持ち運ぶよ!と言われるのです。私たちも偶像礼拝はもちろん、「神はいない」という価値観や社会を造り出し、自分は何ものか、愛とは何か、生きる目的は何か、何もかもわからなくなって、自分やお互いを傷つけ貶めてしまう、的外れに陥っていないでしょうか。私たちは神様に背負われる必要があります。その方法は、イエス・キリストという「あがない」を神様から受け取ることです。神様の大きな背中から世界の本来の様を知り、くつろぎ、歩き、学び、働き、生きる。そして永遠の新しい天と地まで持ち運ばれるのです。

キリスト教会ではともすると「罪人」が強調されます。生まれながらの罪人。はなから罪人。わが子に、物心つく前から「お前は罪人だ。私はお前を愛さない」と言い続けたらその子はどうなりますか?神様はずっと「愛しているよーっ!!!私が創造し、造り、あがない、仕立て、持ち運ぶんだからなーっ!!!」と語り続けておられます。罪の自覚は大切です。自覚するなら神様の語りかけに応えればいい。そうすれば私たちの側も「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」という価値を取り戻すことができます。神様に愛されたかけがえのないお互いを敬い合ってまいりましょう。

9月25日(日)の礼拝は、創世記第6章1節〜12節から、「悔いられる神様」と題してメッセージです。

永遠の命は特別なのか

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9月8日(木)、教会員の兄弟が天に召されました。土曜日から日曜日にかけて葬儀があり、ご家族の慰めを祈り、御国の希望を分かち合いました。11日(日)の礼拝は創世記第5章1節〜32節から、「永遠の命は特別なのか」と題してメッセージ。奇しくも死と永遠の命について思い巡らす時となりました。

ある人は「誕生とは死に向かうスタートだ」「死ぬために生まれてくる」と言います。確かに死は現実です。しかし人は生きたいと望み、「永遠の命」という言葉を使ってやみません。では聖書は死や永遠の命をどのようにとらえているのでしょうか。

累々たる死の現実

創世記第5章にはアダムからセツ、そしてノアにつながる系図が記されています。彼らの寿命は今に比べてはるかに長寿です。天地創造から洪水までの地球環境には「上の水」が存在していました。今とは環境が違います。有害な宇宙線や放射線、環境破壊や遺伝子損傷もなく今の十倍以上生きられたのでしょう。一番長生きしたのはメトセラ(ノアの祖父)969歳。しかしその息子レメク(ノアの父)は777歳。他の人々の年齢に比べて不自然に短い。アダムから単純計算すると(これには諸説ありますが)メトセラとレメクは洪水の直前、もしくは洪水に巻き込まれて死んだ可能性があります。それはさておき。たとえ、どんなに長生きしても、人々は次々と死んでいきました。聖書はその死の繰り返しを淡々と記します。

永遠に続く命の現実

しかしたった一つ例外がありました。それがエノク(メトセラの父)。エノクの生きた時代、最初の人アダムは生きていました(これも単純計算すれば)。エノクはアダムのエデンでの生活や神様と歩んだ様子を直接聞きました。経験したことのない世界を記した文書を読むのとは違って、生きた語り部から聞けばリアルです。アダムの息子アベルの死は伝え聞いているがアダムはまだ生きている。神様は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と祝福してくださったはず。「主の名を呼ぶ」だけでなく、もっとリアルに神様と歩みたい!そう願ったエノクは「神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」。こうも訳せます。「エノクは神とともに生活し、神に受け入れられたので、(死を見ないで地上から)いなくなった」。この例外のような記事も、聖書は淡々と記します。

神とともに歩む現実を選び取る

聖書全体を読んでいると気づくことがあります。それは永遠の命や御国のこと、神様の祝福の記事よりも、死や呪いや悲惨といった記事の方が具体的で分量も多いということです。実は神様にとって死は異常なことであり、死にまつわる罪や呪いや悲惨は特筆すべき事なのです。逆に永遠の命や御国のこと、神様の祝福はごく普通のこと、当たり前のことなのであっさりしているのです。私たちが書く日記はどうですか?新聞やニュースははどうですか?死と永遠の命。どちらも現実。しかし死なないことが本来の現実。エノクは永遠の命の現実を選び取りました。メトセラもレメクもエノクに倣うことができたかもしれない。ノアの箱舟に乗れたかもしれない。しかしそれをしなかったのです。

死の現実と永遠の命の現実。それは私たちの前にも置かれています。私たちは「神のかたち」として創造されているのですから永遠の命を選び取るべきです。エノクが具体的に神様とどのように生活し、受け入れられたかはわかりません。しかし私たちが永遠の命を選び取る方法は明確です。エノクは「主の名」を呼び求めた人々の一人ですが、私たちにとって「主」とはイエス・キリストです。イエス様こそ私たちの永遠の命であり、よみがえりであり、父なる神様に至る道です。主イエス様を信じ、主の名によって祈り、神様の言葉である聖書に養われ従うことが、神とともに歩み、神に受け入れられる生活です。一度死を経験しますがそれはイエス様も同じ。そして私たちも復活します。さらに新しい天と地で永遠に住まうのです。創世記からヨハネの黙示録まで、どんなに死や悲惨があろうとも、命と祝福がまっすぐ貫いています。神様はどこまでも永遠の命指向、祝福指向です。この神様に信頼して歩み続けましょう。

9月18日(日)は年長者祝福礼拝。イザヤ書第43章1節〜7節、第46章4節から、「私を持ち運んでくださる神」と題してメッセージです。

魂に至る休み

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子どもたちの夏休み(リフレッシュ)が終わりました。子どもの夏休みほどではないにせよ、私たちも様々なリフレッシュ方法を工夫しているのではないでしょうか。美味しいものを食べる。お友達とおしゃべりする。読書する。海や山、知らない町をふらっと訪ねる…。しかしそういうリフレッシュ方法では休めない領域があります。それが魂。聖書は私たちが体と心と魂からなると語ります。その一番深いところ。魂に至る休みとは?ということで、9月4日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第11章28節〜30節から、「魂に至る休み」と題してメッセージでした。

まず、重荷をイエス様に持っていく

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。律法の厳しい社会に生まれ育ち、律法を守るのに疲れ果てた人々に向かってイエス様は語られました。どんな社会か?たとえば安息日に「してはいけないこと」が山ほどありました。守らなければ罰せられます。休みなのに全く休まりません。しかしイエス様は安息日に人を癒やし、癒やした人に布団を片づけるように言われ、空腹の時に麦の穂を摘んで食されました。これらはいずれも「仕事」に当たるので安息日には禁じられていました。律法の先生方はイエス様を非難しました。安息日は本来、神様の前にくつろいで楽しんで元気になる日。なのに本末転倒になっていた。そして律法の先生方は人々が苦しんでいるのに平気な顔をしていました。このように重荷とは、その人が負いきれないような荷物を、他人から押しつけられ、ずっと背負わされているような状態です。私たちが生まれ育った家庭環境や社会環境、人間関係の中に、このようなずっと背負わされてきた重荷、身につけてきた重荷はありませんか?その重荷をイエス様に持っていく。「もうしんどいです」「無理です」「なんとかしてほしい」。重荷を自覚して告白するのです。

次に、イエス様とくびきを負う

「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。重荷をおろすだけでは十分ではありません。なぜなら長い間重荷を負っていたために、知らず知らずのうちに、ものの見方や感じ方や行動に「歪み」が生じているからです。歪みが痛み、生活や人間関係に支障を来すのです。イエス様はその歪みまでも癒やしたい。「くびき」とは二頭の牛をつないで畑を耕したり荷物を引いたりするときに使う道具です。ベテランの牛と経験の浅い牛をくびきでペアにすると、経験の浅い牛は最初違和感を感じますが、やがてベテランの牛の動きを心得るようになります。イエス様とくびきを負うとは、イエス様のものの見方や感じ方や行動に学ぶことです。それは一朝一夕にはなりません。時間が必要です。重荷に歪んだ自分を恥ずかしがらず隠さないで、力みを抜いて、がんばりを置いて、イエス様に学ぶ。どんな歪みがあるか教えられる。そして歪んだ自分から少しずつ解放されていく。さらに歪む前の本来の私に回復されていく。体と心と魂がスーッとまっすぐにされていくのです。

さらに、イエス様と軽い荷を引く

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。くびきは仕事の道具です。道具は使いこなす人にとって自分の手足のようなもの。自分の力をいかんなく発揮できます。イエス様のくびきに慣れてくれば、今度は仕事が出来るようになります。しかも一人で仕事をするのではなくイエス様と一緒。そして重荷ではなく軽い荷を引くことが仕事。私はかつて、介護の仕事をはじめて間もなく、腰痛になり1ヶ月ほど休業しました。ゆっくり休んで痛みが取れるとリハビリが始まりました。自分の体の歪みを知り、メンテナンス方法を学び、仕事に復帰しました。以前と同じ職場です。しかし自分の体が違うだけで、仕事の様子がまるで違うのに驚きました。仕事がとても充実したものになりました。これと同じように、かつて重荷と感じた家庭環境や社会環境、人間関係が同じであっても、自分が変えられることで、全く違う感覚で向き合ったり、取り組んだり出来るようになるのです。自分のものではなかった重荷のような日常から、自分が取り組むべき日常へと変えられるのです。イエス様は単なる休みではなく、魂の喜びに至る休みを与え、活き活きと立ち上がれるまで導いてくださるのです。

9月11日(日)の礼拝は、創世記5章1節〜32節から、「永遠の命は特別なのか」と題してメッセージです。


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