カテゴリー

みんなの賜物 三位一体の神の交わり

コリント人への第二の手紙も最後。問題だらけのコリント教会。「クリスチャンだ、教会だと言っても結局変わり映えしない」「伝道だ、証しだと言うけれどこれでは証しにならない」と言う声が聞こえてきそう。しかしさにあらず。共に問題を認め、向き合い、乗り越えることこそ教会の醍醐味。そこに変化、成長、一致、慰め、励ましがある。愛がにじみ出る。宣教の力がある。コリント教会があったからこそパウロの名言が紡ぎ出され、珠玉の御言葉となりました。私たちの問題、弱さ、愚かさの中にこそ、神様の恵みと力が現れるのです。そして最後に。礼拝で必ずと言っていいほど耳にする御言葉が登場です。それが『主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように』。ということで、9月22日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第13章11節〜13節から、『みんなの賜物 三位一体の神の交わり』と題してメッセージでした。

私たちの交わりはこの賜物の中に 11節-12節

三位一体の神の交わりは、まず私たち教会に必要です。『喜びなさい』とパウロ。「ごきげんよう」という挨拶言葉でもあります。締めくくりの挨拶。次に『全き者になりなさい』。「完璧な者になれ」という意味ではありません。「あるべき姿にする」「かたく結び合う(Ⅰコリント1:10)」という言葉。ある方が相談に来られました。話しの最後にこう言われました。「こうなったのも私の信仰が足りないからです。これからもっと信仰生活をがんばります」。私は言いました。「がんばってもっとスゴイ完璧なあなたになる必要はありません。その逆。力を抜く。世の中を生き抜くため身につけたプライドや『こうでなければならない』と言った心の鎧や武器を手放すのです。どんどん身軽になってスッピンになる。そこに神様が創造して下さった、素晴らしい元々のあなたがいるのです」。あるべき姿に戻るには三位一体の神様の交わりに身を置くべきです。そこが源。そこが原点。そこに『愛と平和』がある。もう互いを隔てる心の鎧や武器は必要ない。互いが見える。わかる。触れられる。パウロはその親密さを『きよい接吻をもって互にあいさつをかわしなさい』と表現します。当時の挨拶の仕方。そんな習慣のない私たちに字義通りせよと言っているわけではない。それほどの親密さをもって、励まし合い、思いを一つにし、かたく結び合えるということです。それが三位一体の神様の交わり。私たちの交わりは、三位一体の神様の交わりの中にあるのです。

この賜物は私たちの交わりから外へ 13節

この御言葉は手紙の最後にあります。私たちの礼拝の祝祷も最後。なぜ?それは三位一体の神の交わりを、その愛と平和をそれぞれの家庭や地域や職場や学び舎に持ち帰って分かち合い広げるため。『そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう』(11節)とは、そのための臨在なのです。三位一体の神の交わり、愛と平和をもう少し違う言葉で言うなら、神様の愛とイエス様の救いと聖霊様の助けです。私たちは神様の愛とイエス様の救いと聖霊様の助けをいただきました。そして互いに分かち合います。さらに帰って行く先々で分かち合うのです。創世記で神様はご自身のことを『われわれ』と言われました。祝福は『われわれ』と言われる神様から「私たち」に流れ、地に広がるのです。それは旧約聖書、新約聖書、そして現代も変わりません。神様は孤独でも孤高のお方でもない。交わりを大切にし交わりを広げたいお方。私たち教会も同じ。私たちは神様の交わりを映し出す鏡。伝道は特伝や教会案内配布だけではありません。私たちの日常で出会う人々との交わりが特伝であり教会案内なのです。「私の周りにクリスチャンは誰もいない」なんて嘆いている暇はありません。あなたの周りは祝福を待っている人だらけ。交わりが広がる可能性しかないのです。そのために私たちは祝祷を持って派遣されるのです。

コリント教会と私たちを取り巻く社会状況は差ほど違いがありません。コリント教会にあった問題は私たちにもあり得ます。歴史は繰り返す。だからコリント人への手紙は今も私たちに語りかけるのです。そしてこの御言葉を持って送り出してくれるのです。ならばあまたの問題を乗り越えられる。コリント教会に、パウロに、神様に感謝しましょう。時代や文化・国境を越えてつながっている三位一体の神様と諸教会の交わりを感謝しましょう。

9月29日(日)の礼拝は、ローマ人への手紙第12章1節〜5節から、「きよめのプロセスとその目的」と題してメッセージです。

老いても新しく

9月15日(日)は年長者祝福カフェスタイル礼拝。教会の年長者のご長寿をお祝いし、年長者の歩みや信仰の証しに耳を傾けられることを感謝します。聖書にもたくさんの年長者が登場します。ニコデモもその1人。今日はヨハネによる福音書第3章1節〜15節から、「老いても新しく」と題して、ニコデモとイエス様の出会いから学びたいと思います。

イエス様に学ぶニコデモ 第3章1節-15節

ニコデモは律法学者の中でもとくに厳格なパリサイ人。イエス様が彼を『イスラエルの教師』と呼ばれる通り、民族と社会全体から尊敬を受ける立派な人。そして老人。イエス様は30そこそこ。めざましい奇跡を行い、力強く人々を教えておられました。しかしイエス様を危険視する者もあった。それがパリサイ人。ニコデモは仲間に知られないよう、人目をはばかり、こっそり夜訪ねてきた。イエス様はいきなり『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』。真面目なニコデモは「こんな老人が?そんなの無理!」。イエス様は「あなたほどの人が、こんなこともわからないのか!」と驚かれます。驚かれてもねぇ。しかし。私たちは知っています。赤ちゃんが羊水と共に人の子としてこの世界に生まれてくるように、聖霊の助けと水(バプテスマ)によって神の子として神の国に生まれることを。ニコデモは「何を言う!失礼なやつだ」と怒ることなく、イエス様の言葉を心にとめました。『天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない』。ニコデモはこの言葉の意味を数年後に知ることになるのです。

イエス様を弁護するニコデモ 第7章50節-52節

ニコデモがイエス様を訪ねたあの夜以来、イエス様の言動はパリサイ人にとって受け入れがたくなっていきました。イエス様がご自身を神様と同じ立場に置く発言をされ、律法を破っているように見える行動を取り、パリサイ人たちを責めることも度々だったから。彼らにとってイエス様への疑いや警戒は、憎悪に変わり、憎悪は殺意に変わっていきました。祭司や律法学者の議会はそんなことで紛糾しました。そんな中、1人異を唱えたのがニコデモでした。「いろんな噂や情報が錯綜している。そんなことに振りまわされないで、直接本人に聞くのが大事ではないか?」しかし議会は「彼はガリラヤ出身だから預言者ではない」と一蹴します。しかし彼らは聖書にもイエス様にも聞く耳を持っていませんでした。しかし。私たちは知っています。いろんな噂や情報に踊らされず、煽られず、恐れず、聖書とイエス様に聞いて従うことを。ニコデモは最初、仲間を恐れ、人目を気にして、こっそりイエス様に会いに来た。しかし混乱と殺意に満ちる中にあっても、勇気を持って発言する者へ変わっていたのです。

イエス様に従うニコデモ 第19章39節-42節

イエス様はついに十字架につけられました。「我々こそ神の民だ!」と豪語する祭司や律法学者がイエス様を嘲笑していました。ニコデモは思ったことでしょう。『ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない』とは、このことだったのかと。モーセが荒野で上げたへびとは?イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放され喜んだも束の間、不平不満をつぶやき続けました。そんな人々を毒蛇が襲う。そこで神様はモーセに青銅のへびを木で高々と上げさせ、それを見る者は助かったというお話し。ニコデモは悟ったはずです。「この十字架に上げられたイエス様は何のためにあるのか?それは不平不満たらたらで、傲慢で罪深い、我々のためじゃないか?自分の罪で死んで行く我々を救うためじゃないか?」しかし。私たちは知っています。イエス様は全ての人の罪のために上げられたことを。そしてこの十字架を見上げ、自分の罪を認め、イエス様こそ私の救い主だと信じる者は救われることを。ニコデモは議会仲間のアリマタヤのヨセフとイエス様を埋葬しました。葬るという行為を通して、イエス様に従うことを表明したのです。そして『天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない』というあの夜のイエス様の言葉が、イエス様の復活によって現実になることを知るのです。

ニコデモはイエス様と出会って、老いてもなお新しく変化していきました。私たちは知っています。私たちもイエス様に出会い、救われ、イエス様と共にある。どんなに小さくても老いていても、変われないことはない。新しくなれないことはないことを。

9月22日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第13章11節〜13節から、「みんなの賜物 三位一体の神の交わり」と題してメッセージです。

真理に従えば力がある

パウロは迷走するコリント教会を見捨てず、忍耐強く向き合い、回復と成長を願いました。それがパウロににじみ出る神の愛。しかし。パウロは最後に来て気になることを記します。『もし悟らなければ、あなたがたはにせものとして見捨てられる』『わたしたちが特に祈るのは、完全に良くなってくれることである』『全き者となりなさい』。え?見捨てられるの?もしくは完璧を要求されているの?パウロの真意はいかに?ということで、9月8日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第13章1節〜10節から、「真理に従えば力がある」と題してメッセージでした。

人のことを言う前に 1-2節

パウロは三度目の訪問を計画します。一度目は教会を生み出すため。二度目は問題処理のため。しかしこの時、問題がこじれました。それでもパウロは助言と忠告を残しました。その後「涙の手紙」を、さらにこの第2の手紙をテトスに託し訪問させます。『すべての事がらは、ふたりか三人の証言によって確定する』とは当時の律法です。パウロたちの再三の訪問と忠告は、多くの人が聞いて見て読んでいます。にもかかわらず変化がなければ、逆に悪化しているなら、処罰を実行するまで。決して脅しでも厳しくもありません。丁寧な手順を踏んでいる。コリント教会や偽教師は、パウロを悪く言うことで自分を正しいとしました。パウロが本物の使徒か証拠を要求しました。しかしパウロの生き様はキリストの使徒であることを圧倒的に証明していました。キリストの弱さ・十字架が、キリストの強さ・力であるように、パウロは弱さの中にありながら宣教の力を発揮し続けたのです。「自分に優しく他人に厳しい」のではなく、まず自分にキリストの弱さと力があるか、見つめ直したいものです。

あなた自身を吟味し 5-6節

コリント教会はどうなのか?『にせものとして見捨てられる(不適格者とされる)』『見捨てられた者(不適格者)ではない』とパウロ。どっちやねん!大事なのは『イエス・キリストがあなたがたのうちにおられること』を悟る(認識する)か悟らない(認識しない)か。知人が一つ屋根の下にいても、同じバスに乗っていても、知人と認識しなければ赤の他人。何も始まらない。キリストはいつも私たちと共におられる。いるかいないか?ではなくいつもおられる。それを認識しないで「私はダメだ」「こんな私にキリストはおられない」「もう愛されていない」と嘆いていないか?それはキリストそっちのけで、自らを『見捨てられた者』と決め込んでいるだけ。パウロは優しく熱く『イエス・キリストがあなたがたのうちにおられる』『見捨てられていない』それを認識せよ!と語りかけるのです。「自分のことは棚に上げて他人のことを言う」のではなく、まず自分を棚から下ろして、うちにおられるキリストを認めなおしたいものです。

あなた自身が真理に従いなさい 7-8節

「祈る!あなたがたがどんな悪をも行わないように。あなたがたに良い行いをしてもらいたいため」「祈る!あなたがたが完全に良くなってくれることを」とパウロ。「完全に良くなる」とか「全き者となる」(11節)とか、結局パウロの要求は高い?赤ちゃんはどうやって歩けるようになる?赤ちゃんは自分を見るのではなく、歩く人(いつも共にいてくれる人)をひたすら見て真似て歩けるようになっていく。私が適格者か?良い行いができているか?完全か?自分を見た瞬間、不適格者になり、良い行いができなくなり、完全でなくなります。自分は弱い。その認識は大事。弱いからこそ、できないからこそ、見るべきもの真似すべきものがある。それが『真理』。真理とは共におられるキリスト。私がキリストを認識する時私は適格者でいられる。私がキリストに従う時それが良い行いなのです(従うとは行動ですから)。キリストを認識し、キリストに従う時、私たちは弱くとも強く、私たちは完全なのです。

パウロは、三度目の訪問でコリント教会に厳しい処罰を下さすことになっても、『倒すためではなく高めるため』と記します。パウロはコリント教会がどう転んでも回復と成長を願っている。愛している。そしてその助言はシンプル。『真理に従えば力がある』。まずは自分が、いつも自分が、共におられるキリストを認め、キリストに従う。教会の建て上げは自分から始まるのです。

9月15日(日)は年長者祝福カフェスタイル礼拝。ヨハネによる福音書第3章1節〜15節から、「老いても新しく」と題してメッセージです。

年長者祝福カフェスタイル礼拝のご案内です

パウロににじみ出る神の愛

コリント教会最後の問題である偽教師の実体を赤裸々に記したパウロは、最後にもう一度、コリント教会と自身との関係に戻り、素直な心情を吐露します。その心情は子を思う親のような、いえ、神の愛がにじみ出ているかのようです。それはどんな愛なのか?ということで、9月1日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第12章11節〜21節から、「パウロににじみ出る神の愛」と題してメッセージでした。

向き合い続ける忍耐の愛 11節−12節

パウロが記す『愚か者』とは人間的なことを誇り合う人々。パウロは愚かさを重々承知で、偽教師たちと比較するように、それでいて偽教師にはまねできない数々の誇りを記してきました。しかし本来そんなことは無用のはず。元々コリント教会はパウロの『しるしと奇跡と力あるわざ』という『使徒たるの実(じつ)』を見て触れて味わって救われたから。コリント教会がそのことを思い出しさえすれば良かった。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言いますが、私たちは忘れやすい。しかしパウロは諦めない。再三の手紙と再三の訪問で、彼らの目線に立って語り続けた。神様もそう。イスラエルの民に、何世代にもわたって向き合い、語り続け、「しるしと奇跡と力あるわざ」を示された。イエス様もそう。人となって人の目線に立って向き合い、語り続け、「しるしと奇跡と力あるわざ」を示された。神様もイエス様もパウロも諦めない。向き合い続ける忍耐こそ、神の愛なのです。

回復を求める愛 14節

偽教師たちは『あなたがたの持ち物』を要求しました。コリント教会の財産を巻き上げていた。一方パウロは『あなたがた自身』を『求め』ました。そっちの方が怖い?この「求める」は「失ったものを探し求める」という意味があります。現代の日本では毎年1万件の失踪届があり、2千人は行方がわからないそうです。ある日忽然と家族が消える。家族の思いはどんなでしょうか。コリント教会は忽然と姿を消したわけではなく、確かにコリントの町にありました。しかしその心はさ迷っていた。パウロはそんな彼らの心を見つけ出し、神の家族、神の家として回復するために『自分をも使いつくす』とまで記します。放蕩息子の帰りを待ちわびる父(神様)や迷える羊を探す羊飼い(イエス様)に重なります。いずれの話も失われたものを見出す喜びで終わります。神様にもイエス様にもパウロにも、その人の過去を問わず、探し求める苦労を厭わず、回復する喜びだけがある。それが神の愛なのです。

成長を願う愛 19節

パウロは自身の誇りや自己弁護のためにこの手紙を記したのではありません。『神のみまえでキリストにあって』、必死で向き合いながら、『あなたがたの徳を高めるため』に語り続けてきました。「遠くの親戚よりも近くの他人」と言いますが、パウロはコリント教会から離れていても、決してほったらかしではありませんでした。私が小学生の時、鍵っ子でした。防犯カメラもホームセキュリティもスマホもない時代。頼りになるのは母の言いつけでした。私が母の言いつけを守り無事であるかは、母が帰ってみるまでわからない。母は仕事が終われば急いで帰ってきてくれました。パウロは『三度目にあなたがたの所へ行く用意をしている』と記します。手紙の往来にも時間がかかる2千年前の世界ならもっと心配があって当然。20,21節にはそんな子を案ずる親のようなパウロの心情が吐露されます。愛がなければこんな心配はしません。偽教師なら知らん顔です。かけがえのないコリント教会の成長を願ってやまない愛があったからこそのパウロの心情。それが神の愛なのです。

私たち天授ヶ岡教会も、神様は様々な牧師や先輩クリスチャンを通して、向き合い続け、回復と成長を願って働いておられます。パウロ以上に神様は諦めない。だから私たちも諦めない。共に何度でも原点に立ち帰り、何度でも修正し、何度でも挑戦し続ける。地上では完璧も完成もありません。大いにやり直していい。そのあきらめない営みに神の愛がにじみ出るのです。

9月8日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙だ13章1節〜10節から、「真理に従えば力がある」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved