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散らされることの意味

世界中どこへ行っても人がいます。そして人種や言葉や文化の違う人々がいます。「違う」ことで起こる摩擦や事件や問題もありますが、「違う」ことによる豊かさや美しさ、「違う」ことを乗り越えて理解する喜びもあります。この「違う」を生み出されたのは神様です。なぜでしょうか?ということで1月29日(日)の礼拝は、創世記第11章1節〜9節から、「散らされることの意味」と題してメッセージでした。

神を見上げるために

洪水後、人が増え始めます。箱舟が漂着したのはアララテ山。人々はそこから東のシナルの平野へ移動します。そこで人々がしたことは「町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」ということでした。「名を上げて」。洪水前にも似たようなことがありました。セツの子孫の「神の子」たちとカインの子孫の娘たちとの間に生まれたネピリムを「有名な人々」と呼びました。いずれも神様の御名を呼び求めるのではなく、人間の名前を持ち上げて、その名前の元に集まろうとしました。居心地や仲がいいことは大切です。しかしまずあるべき関係が無ければ居心地や仲の良さも失われていきます。内向きになり、閉鎖的になり、支配的になり、暴力的になります。洪水前の人々もみな家族や親戚でした。しかし祝福は失われ暴虐が満ちました。現代の世界、日本の家庭、はたまた教会はどうですか?まず大切にすべきは神様に向くことではないでしょうか。

神の言に聞くために

「時に主は下って」。神様は上から見下ろしているだけでなく、人間の目線に立って人々が塔の建設に邁進している姿を見られました。誰も神様を見上げず、神様の言に聞こうとはしていません。塔の建設に邁進する人々の姿は現代の私たちの姿にも通じるものがあります。今も高層建築競争は続いています。現在世界でトップを争う高層建造物はシナルの平野からそう遠くないところにあります。また地上だけではなく月や火星旅行にも情熱を燃やし、不老不死に向けた医療技術の進歩もめざましいものがあります。これらのために人々は次々と新技術を開発しています。しかしどんなに技術が進んでも格差は広がり、国々の関係は悪化し、環境は破壊され、様々な疫病が発生しています。かつての高層建造物があった場所は土や密林に埋もれるか遺跡と化しています。私たちがすべきことは、私たちの知恵や言葉の源である神様の言に耳を傾けることではないでしょうか。

祝福のために

神様は人々の言葉を乱されました。「乱す」という言葉はヘブル語で「バラル」。そこから塔のあった町は「バベル」と呼ばれました。天地創造のはじめ、神様は人間を「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と祝福されました。洪水後、神様は人間を「生めよ、ふえよ、地に群がり、地の上にふえよ」と祝福されました。しかし人間はわざと逆らったわけではなかったかもしれませんが一つ所にいようと、祝福とは真逆なことをしていたのです。そこで神様は「言葉を乱す」という一見喜ばしくない出来事によって、人間を「全地のおもて」に散らされました。これは初代教会の出来事にも通じるものがあります。イエス様は弟子たちに「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と言われました。しかし弟子たちはイエス様の言葉にわざと逆らったわけではありませんが、エルサレムにとどまっていました(ペンテコステ後も)。そこで神様は教会に対する大迫害という一見喜ばしくない出来事によって、クリスチャンたちを散らされました。そのことによって福音は全世界、全時代に広がっているのです。

散らされるとは言葉を換えれば派遣されることです。何のために?祝福のためにです。神様の豊かな命と支配と愛を満たすために。一見喜ばしくない出来事もよく見れば喜ばしいものとなりました。言葉の違いは文化の多様性を生み出しました。大迫害も使徒パウロを生み出し新約聖書が記されるきっかけとなりました。そして多様な文化の中に蒔かれた福音は多様な教会を生み出しているのです。「違う」は祝福の障害にはなりません。それは神様の豊かさを反映しているのです。

2月5日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第5章1節〜13節から、「免疫力のある教会」と題してメッセージです。

恥を覆う祝福の子

1月22日(日)の礼拝は、創世記第9章18節〜第10章32節から、「恥を覆う祝福の子」と題してメッセージでした。大洪水の後、ノアは農夫になりぶどうを育て、ぶどう酒で酔ってテントで裸で寝ていました。「全き人」ノアですが完璧な人を言うのではありません。神様の恵みを素直にいただく人、神様に向いて聞いて従う人です。ノアが酔って裸で寝ていたからといって「全き人」でなくなったわけではありません。ノアは「全き人」であると同時に、神ではない「神のかたち」としての限界や弱さもあった、ということです。ここでは飲酒酩酊が問題の主眼ではありません。ノアの子どもたちの父に対する対応が問題の主眼です。

裸を告げるハム

ノアにはセム、ハム、ヤペテという息子がいました。ハムは「末の子」また「カナンの父ハム」とも記されています。なぜあえてそう記すのか?「息子のハムもワルだが、孫のカナンはもっとワルだった」「後のカナン民族の堕落ぶりはここにあるから」と言われることもあります。しかしここで言えるのは第10章への橋渡しだということです。それは後に触れます。とにかく。裸で寝ている父を最初に見つけたのはハムでした。「裸」とは「恥」と訳せる言葉です。ハムは父には何もしないで、父をほったらかしで、父の恥を他の兄弟に告げました。

裸を覆うセムとヤペテ

セムとヤペテは父の裸を見ないよう後ろ向けになって着物で覆ってあげました。この二人の行動。以前にも似たようなことがありました。アダムとエバがへびに向いて聞いて従って裸が恥ずかしくなって、イチジクの葉で体を覆い、それでも足りず神様の前から隠れたとき。神様は皮の着物で彼らを覆ってくださいました。その神様の行動に似ています。セムとヤペテは「神のかたち」として、神様を映し出していませんか?ハムはノアを悪く言う必要も、他人に知らせる必要もありませんでした。父を気遣い、そっと着物で覆ってあげれば良かったのです。

祝福の子の真の姿

ノアは酔いが覚めて事の次第を聞いて、「セムの神、主はほむべきかな」「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に住まわせられるように」「カナン(ハムの子)はのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、兄弟に仕える」と言います。第10章に彼らの子孫の最初の分布が記されます。セムはメソポタミアやアラビア半島に、ヤペテ(「広い」という意味)はヨーロッパやロシア方面に、ハム(「熱い」という意味)はメソポタミア、アラビア半島、エジプト、地中海沿岸に住みました。そしてハムの子孫から権力者ニムロデが起こりました。カナンを含むハムの子孫は文化文明が発達し、肥沃な土地に住んでいたことがわかります。以前にも似たようなことがありました。カインの子孫です。カインの子孫から文化文明や権力者が起こりました。「しもべのしもべ」とはこき使われる奴隷を言うのではありません。かつてこの聖書の箇所を根拠に人種差別や奴隷制度を正当化する人もいました。しかし長い歴史を経て、三兄弟の子孫を特定の人種に当てはめることはできません。聖書が示すのは、どんなに強く賢く富み栄えても、神を神とせず、命を大切にせず、恥を覆うことをしない者は、祝福を分かち合う「神のかたち」ではなく、何もかも奪う「のろわれた者」、与えることをしない「しもべのしもべ」なのです。実は世の中の見方からすれば、祝福の子はしもべに見えます。弱く小さく少数派であることが多い。しかし神を神とし、命を大切にいとおしみ、恥を覆う者にこそ祝福の子の真の姿はあるのです。

最後に。間違わないでいただきたいのは、親や上司が行っている悪いこと(虐待や犯罪など)を見ないふりしなさい、と言っているのではないということです。ノアは罪を犯したわけではありませんでしたが、もし罪があるならそれこそほったらかしにしない。悪いことは明らかにし責任を問う必要があります。そしてその上でその人を思いやり、その人が再び立ち上がれるように恥を覆うことが大切なのです。

1月29日(日)の礼拝は、創世記第11章1節〜9節から、「散らされることの意味」と題してメッセージです。

信仰を継承する

1月15日(日)の礼拝は、ドロシー・エレン・ホーア師と福田八重師の追悼礼拝でした。お二人は戦前・戦後、東京や大阪を中心に伝道活動をされ、多くのクリスチャンや牧師が生み出されました。その働きの中で天授ヶ岡教会と天授ヶ岡幼稚園が誕生しました。詳細は教会ホームページの「教会の案内・沿革」にありますのでご覧下さい。ヘブル人への手紙第13章7節〜8節から、お二人の先生をはじめ、信仰の先輩たちを思い起こしながら、何を継承すべきか、何にならうべきかをメッセージしました。

信仰を継承する

「神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起こしなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい」(ヘブル13:7)とヘブル人への手紙の著者は語ります。「その人格にならいなさい」「その行いにならいなさい」ではなく「その信仰にならいなさい」。私たちはとかく、有名人や尊敬する人の人格や行いにならおうと(コピーしようと)します。言葉遣いや仕草が似てくることもあります。しかし良いところばかりコピーできればいいですが、そうでないところもコピーしてしまいがち。しかし信仰は人格や行いに左右されません。逆に信仰によって人格や行いが定まると言えるのです。聖書が言う信仰とは?「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」(ヘブル11:1-2)。これは自分が「ああしたい」「こうしたい」「必ずこうなる!」「いや、もう実現した!」と、望んだり宣言したりすることではありません。どれだけ突拍子もないことを実現させたかという武勇伝でもありません。聖書が言う信仰とは、「神の言」−救いと祝福の言−を信じて従い抜くことです。「彼らの生活の最後」とは「彼らの地上生活からの脱出」と訳せる言葉です。信仰の先輩たちは、神の言に従う信仰を貫き、引き継ぎ、地上生活から脱出していったのです。では信仰さえ同じであれば人格と行いはどうでもいいのか?

キリストにならう

ヘブル人への手紙の著者は当時の社会を垣間見せてくれます。政治や宗教的理由で移動を余儀なくされる人々がたくさんありました。不当な理由で投獄されたり不当な扱いで苦しんでいる人々がたくさんありました。結婚が軽んぜられ性的なことに関して何でもありだったようです。金で何でも手に入れる風潮もありました。また使徒たちが伝えた教えとは違って、律法主義や禁欲主義や原理主義的な教えを教会に持ち込む者もいました。こうやって見ると当時も今もそう違いません。愛の心は冷え、モラルは崩壊し、人々の考えや行動は極端から極端へ激しく揺れ動いています。一体誰にならうべき?著者は具体的な行いと共にこう語ります。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル13:8)。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」(ヘブル12:2)。キリストこそ信仰の模範。神の言に従い抜かれました。そこにあの人格と行いがありました。そして神の言に死に、よみがえらされ、天に昇られたました。そこに完成されたキリストがあります。私たちの人生にとって成功や失敗が問題なのではありません。神の言に徹するキリストにならい続けたかが問題です。その結果として私の人格と行いがある。そして地上生活から脱出するとき私もまた完成されるのです。

キリストは全時代、全地域を貫く大木のようなもの。信仰の先輩たちはみなこの大木につながって、その時代、その地域に仕えました。その枝振りは様々。同じものはありません。しかしみなキリストにつながって地から天へ向かっているのです。私たちもこのキリストにつながって、今の時代、今の地域に仕え、天を目指してまいりましょう。

1月22日(日)の礼拝は、創世記第9章18節〜第10章32節から、「恥を覆う祝福の子」と題してメッセージです。

若いときにすべきこと

成人式があるこの時期、礼拝の中で若い方々の祝福を祈る教会も多いかと思います。少子高齢化が進む日本において、次代を担う若い方々への期待は大きいでしょう。教会も同じです。ということで、1月8日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第19章16節〜22節のイエス様に会いに来た青年の話から、若いときにすべきこと、そしていついかなる時にも大切であることを、メッセージしました。

何をすべきか?

イエス様のところに「ひとりの人」が来ました。彼は青年でたくさんの資産を持っていました。そしてイエス様に「永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と尋ねました。イエス様は「(よいかた=父なる神様の)いましめを守りなさい」と言われ、十戒の後半五つの戒めを示されます。すると青年は「それはみな守ってきました」と言ってのけます。今風に言えば青年実業家、勝ち組、超エリート。そして倫理的にも実際の生活においても崇高な人でした。これ以上何を求めるのか?と思えます。しかし彼には物足りなさがありました。手にできていないと思えるものがありました。それが「永遠の生命」でした。そしてそれは「よいことをしたら」得られると思っていました。

キリストに従うことだ

イエス様は言われます。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。イエス様は意地悪?青年にできそうにないこと、青年がスッカラカンになることを求めているのか?青年の財産を永遠の生命と引き替えに要求しているのか?いえいえ。父なる神様も御子イエス様もそんな小さなお方ではありません。「あなたが完全になりたいと思うなら」とは「あなたが十分に成長したいと思うなら」と訳せる言葉です。先ほどの「(よいかた=父なる神様の)いましめ」を一言で言うなら「他人のものを奪うな」ということです。そしてイエス様が「施しなさい」と言われたのは「与えなさい」ということです。イエス様は青年が「奪わない者」以上の「与える者」としての成長を願って言われたのです。

そうすれば全てはある

青年は悲しみながらイエス様の元を去りました。永遠の生命を得るためにはどんなことでもする!と意気込んできましたが、イエス様に従えませんでした。もし青年が自分の財産を貧しい人々に施したらどんな事が起こるか?今風に言えば実業家が貧困対策のため、医療や教育や福祉に今ある財産を寄付するようなものです。貧しい人や社会に多大な利益や影響を与えます。そして実業家にも大きな利益や豊かな関係をもたらすのではないでしょうか?神様もイエス様も決して無茶やできないことを言われません。イエス様が「施しなさい」と言われたのは一時的なことです。また稼げたし、稼いだものを運用することもできました。そして「わたしに従ってきなさい」とは、「従い続けなさい」という言葉です。一時的なことも含めて、永遠に及ぶ先の先まで見越してものが言えるのはイエス様だけ。永遠の生命は「どんなよいこと」をしても得られるものではありません。イエス様に従うところに永遠の生命がある。最善の行いがある。成長がある。そして最善の行いは永遠の生命を得るためではなく、永遠の生命に加えて天に宝を持つためのもの。できない!と肩肘張るのではなく力を抜いて従う。神様もイエス様もどこまでも与えたいお方。与えるお方に従うとき、与えるほどの者となるのです。

私たちは「今」が一番若いときです。常に、今、イエス様に従う。それが若いときにすべきこと。そうすれば常に、今、永遠の生命がある。そして全てがあるのです。

1月15日(日)はホーア師・八重師追悼礼拝。ヘブル人への手紙第13章7節〜8節から、「信仰を継承する」と題してメッセージです。

生活の順番

「一年の計は元旦にあり」と言いますが、この一年を様々に思い、願い、求めておられる方は多いと思います。年始に限らず、私たちの生活には何事にも「はじめ」や「まず」があります。月のはじめ、週のはじめ、一日のはじめなど。そしてそのはじめにまずするべき事がある。まずするべき事は人によって様々でしょう。しかしキリストは、誰もが、何事のはじめにも、まずするべき事、求めるべき事がある、と語ります。ということで、元旦礼拝は、マタイによる福音書第6章25節〜34節から、「生活の順番」と題してメッセージでした。

「天の父」である神様に求める

キリストはまず私たちが普段求めているものを語られます。それは「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という、細々(こまごま)とした日常の必要です。「これらのものは必要ない」とか「考えるな」と言っておられるのではなく「心配するな」と言われます。それよりも「命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」。世間でも「命あっての物種」とか「からだが資本」と言います。命とからだがあるからこそ、考え、学び、働き、お金を得、ものを買うことができる。命とからだは神様が与えてくださったもの。もっといえば、この命とからだを生かす光や空気や土や水も神様が与えてくださったもの。細々とした日常の必要に目を向けることも大切ですが、それよりも命とからだ、そしてより大きな世界に目を向けることが大切です。そして命とからだとこの世界を与えてくださった神様に求めるべきなのです。

まず神の国と神の義とを求める

キリストは「天の父」である神様に「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われます。神の国とは天国に限りません。神様の支配、秩序、力、富、保護のあるところを言います。神の義とは神の国の国民としての権利、保証、自由を言います。みなさんはどの国の国民ですか?世の中にはいろんな国がありますが、どの国の国民かでその権利や保障や自由、また仕事や教育、医療や福祉も随分違ってくるのではないですか?そして細々とした日常の必要ほど激しく左右されるのではないでしょうか。目先のものよりもより大きなものが大事。世の中のどの国の国民かよりも神の国の国民であるかこそ大事。どうすれば神の国の国民になれる?キリストを私の救い主と告白してバプテスマを受けることです。バプテスマは出生届のようなものです。出生届した国において、日々必要に応じて、様々な権利や保障を求めるのと同じように、神の国においても、日々必要に応じて、様々な必要を神様に求めるのです。

一日分の苦労でよしとする

キリストは「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われます。「明日や将来の計画を立てるな」と言われているのではありません。「心配するな」。「一日の苦労」とは「今日という一日、ベストを尽くす」と言うことです。どの国の国民であっても遊んでばかりではありません。神の国の国民においても同じです。学びもしますし働きもします。学べることも働けることも、現状はさておき、本来尊い権利であり恵みです。苦労はあっても苦痛ではないのです。そして今日一日ベストを尽くせばそれでいい。明日の分や1週間分や1年分する必要はない。心配が先に立つと目の前の今日に集中できません。今日を大切にできなければ明日を大切にすることはできません。今日一日、神様に与えられた命とからだを用いて、神様に委ねられた生活や学びや働きを丁寧に営む、それでよしとするのです。

私たちはとかく、見るべき順番、するべき順番、求めるべき順番を逆さにしたり、間違ったりします。細々としたものはあっという間に消えて無くなります。肝心なものがないままだと際限の無い心配や苦労を繰り返すことになります。神様こそすべての与え主。まず、その神様に最も大きく肝心な神の国と神の義を求める。するとそれより小さなものや細々としたものは、自ずとおさまるところにおさまっていくのです。それが聖書の語る生活の順番なのです。

1月8日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第19章16節〜22節から、「若いときにすべきこと」と題してメッセージです。

 


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