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クリスマス礼拝と祝会

12月24日(日)はクリスマス礼拝と祝会がありました。

カフェスタイルのクリスマス礼拝。今年はキャンドルも灯しました。

教会学校の賛美。

聖歌隊の賛美。

祝会は持ち寄り食事会。

例年のごとく、賛美や演奏がなされ…

今年1年を振り返っての感謝や恵みを分かち合いました。

オンリー・ジーザス

世界中でクリスマスが祝われます。クリスマスはサンタさんの誕生日?キリストの誕生日?キリストの誕生を祝う日。クリスト・マス。キリストの祭り。ヨーロッパの冬のお祭りがクリスマスに変わりました。ではなぜ喜ぶ?なぜ祝う?その理由は?ということで、12月24日(日)のクリスマス礼拝は、使徒行伝第4章12節から、「オンリー・ジーザス」と題してメッセージでした。

力ある名前イエス

70年前、リトアニアの日本大使杉原千畝が6千人のユダヤ人を救ったお話しをご存じの方もあるかと思います。ユダヤ人は自分の身に危険と死が迫る中、ヨーロッパ脱出のため、杉原千畝の元へ殺到します。杉原千畝はビザに彼の名前をサインし続けました。そのビザは後に「命のビザ」と呼ばれます。ユダヤ人にとって杉原千畝の名前は救いを意味しました。彼の名前はユダヤ人を救い出す力がありました。『この人による意外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである』の『この人』はイエス・キリストです。イエスという名前は救いを意味する言葉。そしてイエスにこそ私たちを救い出す力があります。では何からの救いか?

力ある権威キリスト

戦争の悲惨は私たちの心にある欲望や罪があふれ出て、積もって絡んで生み出されます。今の日本にかつてのような戦争はありませんが平和か?安全か?幸福か?もし私たちの心が全部見えて聞こえて形になったら?その世界は平和で安全で幸福?その心が少し見えただけでも世の中は混乱し混沌としていないか?それが全部表に出たら?生き地獄?死んで体というかせがなくなれば悲惨な滅びのただ中にあることにならないか?イエス・キリストはその欲望と罪から私たちを解放するため、その滅びから救うために来られました。キリストは苗字ではありません。「油注がれた者」、神の国の全権大使という意味があります。杉原千畝で言えば日本大使という権威ある立場に相当します。彼がただ人であれば名前だけではユダヤ人を救えませんでした。日本大使杉原千畝だからこそ救えました。イエスという名前は当時たくさんありました。しかしイエス・キリストはお一人だけ。ではどのように救い出されるのでしょうか?

イエス・キリストは私の救い主

イエス・キリストは私たちの悲惨な滅びを十字架によって肩代わりして下さいました。十字架上で『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれ『完了した』と宣言して死なれました。私たちが自ら招く滅びは別の言い方をすれば「神様に見捨てられる」ということです。今まで神様に見捨てられる経験をなさったのはイエス・キリストだけ。私たちがいずれ経験しなければならない滅びを、誰よりも先に、みんなに代わって完了して下さった。だからこそ復活し墓から出てこられた。そして派遣元の神の国へ帰還された。それは私たちが神の国へ入る道をもつけてくださったということです。歴史に「もし」という言葉はないと言われますが、70年前のヨーロッパにあるユダヤ人にわが身を置き換えたらどうでしょうか?そして日本大使杉原千畝を知ったなら?彼のサインを求めに行かないか?クリスマスはみんなのためのクリスマスです。でも自分の状況を自覚して「イエス・キリストが私の救い主です」と告白しなければ自分のものにはなりません。でも告白すれば私の滅びは処理済みとなり、永遠の命が発給され、神の国の国籍を取得できる。この世界はやがて終わりを告げ新しい天地となります。そこでの生活に必要な復活の体もやがて支給される。時代や国境や人種を越える救いの喜び。今の世界を越えていく救いの喜び。だからクリスマスを喜び祝うのです。

杉原千畝はクリスチャン。地上における人の命は救えても、死の先の滅びから他人も自分も救えないことを自覚していました。自分の命を救えるのはイエス・キリストだけだと告白したのです。そしてイエス・キリストが人生の模範となりました。私たちもイエス・キリストの救いに与り、喜び、お互いを大切に、いたわり、助け、神の国への帰還を楽しみに歩ませていただきましょう。

12月31日(日)は年末感謝礼拝。ルカによる福音書第1章26節〜38節から、「神のみわざのカウントダウン」と題してメッセージです。

天授ヶ岡幼稚園のクリスマス祝賀会

12月21日(木)は天授ヶ岡幼稚園のクリスマス祝賀会が夕方から行われました。

昨年のクリスマス祝賀会から今年のクリスマス祝賀会へ、一年の時を経て成長した子どもたちの姿がありました。力の限り歌い演技する姿はとても素敵でした。私もお話しさせていただきました。

『お言葉どおりこの身に成りますように』ルカによる福音書第1章38節

クリスマスはサンタさんの誕生日?イエス様のお誕生日?イエス様のお誕生をお祝いする日です。

まずは暑い夏のお話し。私は小学校4年生までプールが苦手で、水が怖くて、泳げませんでした。でも4年生の夏休みにプールの先生が泳ぎ方をわかりやすく教えて下さいました。プールの先生が言われる通りにしました。そうするうちに水が怖くなくなり、水の中で手足を動かせるようになり、息継ぎができるようになりました。5年生の夏にはいろんな泳ぎ方で1㎞でも1時間でも泳げるようになっていました。プールの先生を信頼して従ったらできなかったことができるようになりました。

今度はクリスマスのお話し。マリヤさんは神様を信じて従ったら不可能なことが現実になりました。それが救い主イエス様のお誕生です。マリヤさんはヨセフさんと結婚の約束をしていました。でもまだ結婚していませんでした。そこへ御使ガブリエルが現れて「おめでとうマリヤ!こわがらないで。あなたへ神様からの素晴らしいプレゼントがあります。あなたは男の子を産みます。その名をイエスと名づけなさい」。マリヤさんは驚いて「まだ結婚していません!どうやってそんなことが起こるんですか?」。ガブリエルは「神には何でもできないことはありません」と言ってどのように身ごもるか説明してくれました。マリヤさんはそれを聞いて「お言葉どおりこの身に成りますように」とお応えしました。そうしたらマリヤさんは結婚によらず男の子を授かり、ヨセフさんと一緒にイエス様のお誕生を迎えたのです。

クリスマスにはプレゼントをもらいますか?どのプレゼントも素敵ですね。神様は私たちに素晴らしいプレゼントを用意しておられます。それが救い主イエス様。神様は「イエス様を信じて従いなさい。そうすればあなたの心はきれいです。良い行いができます。天国へ行けます」と語りかけておられます。イエス様を信じて従うことがイエス様を受け取ることになります。心をきれいにすることや良い行いをすることや天国へ行くことは自分の力ではできません。でもイエス様を信じて従うならそう成る。「イエス様の救いがこの身に成りますように」と神様にお応えいたしましょう。祝賀会と皆さんの祝福をお祈りします。

神に懸ける少女

「かける」にはいろんな漢字があります。「駆ける」「翔る」「賭ける」「懸ける」…。「懸ける」は「一所懸命」「命を懸ける」などに使います。二千年前のガリラヤの町ナザレに神に懸ける少女がいました。どんな少女だったか?ということで12月17日(日)の待降節第三週礼拝は、ルカによる福音書第1章5節〜38節から、「神に懸ける少女」と題してメッセージでした。

常識に囚われるザカリヤ

神に懸ける少女の前にもう一人の登場人物。ザカリヤ。彼は祭司。聖所で香を焚くという一生に一度あるかないかの名誉あるつとめに与っていました。そこへ御使が現れ『恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい』。ザカリヤは恐怖しながら『どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています』。彼も妻も子どもを願いながら、願いかなわず老人となっていました。ザカリヤは「主は覚えられる」、エリサベツは「主は約束を果たされる」という意味があります。神様は二人の祈りを覚え、その願いを果たそうとされたのです。ザカリヤは常識人でした。真面目で正しく信仰深い人でした。神様を信じて祈っていたし、御使の存在も信じていました。でも老人になったからもうダメだと思っていた。常識的に無理だと。それが恐怖や否定的な言葉となって現れました。常識に則って生活することは大切です。しかし常識に囚われる必要はありませんでした。

神に懸けるマリヤ

マリヤが神に懸ける少女。旧約聖書にナザレは出てきません。マリヤはありふれた名前。当時女性は10代で結婚。ですから名もなき町の名もなき少女と言えます。同じ御使がマリヤに現れ『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい』。ザカリヤへの時と似ています。マリヤは事態を何とか受けとめようとしながら『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』。ザカリヤの応答と似ているようで実は違う。彼女は恐怖せず、「そんなことあるはずがない!」という否定的な言葉ではなく、「どうしたらそれが起こるの?」という前向きな言葉。だから御使はどのように身ごもるか説明するのです。それを聞いたマリヤは『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。これは非常識を受け入れたというのではありません。マリヤとて常識人。しかし人間の小さな常識に囚われず、神様の大きな常識に身を委ねたのです。「はしため」とは女奴隷を言いますが、卑屈になるのでもこき使われるのでもありません。人間の誰に従うよりも、まず神様に従います、という告白なのです。

神に懸ける私

ザカリヤはヨハネが生まれるまで言葉が出ませんでした。それはイスラエルの祝福を祈ることができないということ。この尊いつとめは子どもが与えられることと同じほどに、彼にとって祝福の営みでした。私たちも周りを見て、あんな祝福、こんな祝福をと求めていないか?それがないと祝福されていないと思っていないか?自分にないものを求め、自分に与えられているものに気づいていないことはないか?神様の祝福の現れは多様。ザカリヤのように祈った通りになることもある。マリヤのように自分の考えを越えるようなこともある。しかしそれ以下では決してない。神様が私たちに求めておられることは、マリヤのように応答することです。まずは「イエス・キリストの救いがこの身に成りますように」と。神様の命と支配と愛が私の内を満たし、奴隷になるのではなく神の子とされます。その祝福はどのように拡がるか?神様はそれぞれにふさわしい祝福の営みを用意しておられます。私は大したことありません。無名もいいところ。だからこそマリヤのように、神様に信頼し、全存在を懸けることは、最も賢明なことなのではないでしょうか?

マリヤは世界中で礼拝されています。しかしそれはマリヤにも神様にも不本意なこと。マリヤは神様を礼拝してほしいと願うでしょう。神様は誰もがマリヤのようになってほしいと願われます。私たちも神に懸ける人、キリストの救いがこの身に成りますようにと告白する人、神様がどんな方法で祝福されるか期待する人ととして、神様の大きな常識に身を委ねてまいりましょう。

12月24日(日)はクリスマス礼拝。使徒行伝第4章12節から「オンリー・ジーザス」と題してメッセージです。その後、クリスマス祝会、ぜひお集い下さい。

インマヌエルを信じて

待降節はキリストの来臨(初臨と再臨)に思いを馳せる季節。どんな状況の中でも、神様の言葉に信頼し、キリストの来臨を求めつつ歩む。それが私たちの待ち望むべき「気をつけて、静かにし、恐れない」態度でした。イザヤ書はこのキリストを「一つのしるし」「インマヌエル」と記しています。私たちが求めるべきインマヌエルとはどのようなお方か?ということで12月10日(日)の待降節第二週礼拝は、「インマヌエルを信じて」という題でメッセージでした。

見た目に寄らず共にいて下さるお方

『それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた』。インマヌエルは、おとめから生まれるひとり息子の赤ちゃんだと言うことです。時の王アハズにとって、そんな奇跡的な誕生をする(つまりありえない)赤ちゃんを待ち、たとえ生まれても育つのをのんきに待つ暇はない!と思ったかもしれません。なぜなら北イスラエルとスリヤの脅威が迫っていたからです。アハズや当時の人々が求めたのは、即答してくれて即戦力になる強大な王や国でした。しかし神様は目先の危機や心配事を無視されているわけではありません。目先のことも将来のことも含め、永遠までも私たちを導くことのできる、一国や一時代にとどまらない、みんながイメージする王とは全然違う、みんなのためのインマヌエルを与えて下さるのです。

状況に寄らず共にいて下さるお方

『その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである』『しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った』。預言通り北イスラエルとスリヤはアッスリヤに滅ぼされます。しかし南ユダも例外ではありません。目先の危機を目先の強大なアッスリヤで凌いでも、結局滅びを招くのです。これらの地は異邦人に蹂躙されます。人々にとって、現れては消えていく王や国はもはや何の当てにもなりません。人々の心を絶望と暗黒が覆いました。インマヌエルは、土地や人の心が荒廃した時代に育ち、凝乳と野蜜で飢えを凌ぐ貧しさを共に経験するのです。つまりどんな状況の中にも、たとえ私たちが招く荒廃や暗黒の中にも共に寄り添い、希望を与え善を持って導くインマヌエルなのです。

この世の力に寄らず共にいて下さるお方

『まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる』。『霊妙なる議士』とは「驚嘆すべき助言者」、『大能の神』は「実行力のある神」と言うことです。アハズたちは目先の力がありそうなものに頼りました。どこかの王や国だけではなく、巫女や魔術師にも頼りました。しかし彼らも助けにはなりませんでした。確かに彼らも驚嘆すべきことを言い当てます。しかし彼らは自らの言葉に責任を果たすでしょうか?言いっ放しほったらかしではないでしょうか。彼らもまた時代の波、世界の波に飲み込まれていきます。しかしインマヌエルは、驚嘆すべきことを言うだけではなく確実に実行されるお方です。アハズを始め私たちに向けられた神様の言葉をことごとく果たし、私たちの誕生から永遠まで責任を持って導いて下さるお父さんのようなお方です。時代の波、世界の波を越えて、この争いの絶えない世界を終わらせて真の平和をもたらすインマヌエルなのです。

見た目に寄らず、状況に寄らず、この世の力に寄らず共にいて下さるインマヌエル。それはキリスト。しかし時のユダヤ人指導者たちもローマ帝国を打ち倒す強大な王を求めキリストを十字架につけました。私たちもまた強大で華やかで富み栄える人や国を求めていませんか?しかし強い人や国は目まぐるしく変わります。私たちは歴史に何を学んでいるのでしょう?煌びやかさは増しているかもしれませんが、闇もまた増している。この流れを変えるのはただ一つ。一つのしるし、インマヌエル、キリスト。憎しみと刑罰の十字架を罪の赦しの十字架に変え、死の体を復活の体に変え、滅びの闇を御国の光に変えられました。身をもって私たちの救いをデモンストレーションされました。このキリストを「私の」救い主と信じて従う。そうすれば庭先や家の中ではなく私の内に共にいて下さる。小さくとも確かな平和が「私から」始まる。そして『そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる』という最終的な約束を果たすため再臨されるキリストと大合流するのです。『万軍の主の熱心がこれをなされる』のを楽しみにいたしましょう。

12月17日(日)は待降節第三週礼拝。ルカによる福音書第1章5節〜38節から、「神に懸ける少女」と題してメッセージです。

神の約束を信じて

待降節。キリストの来臨に思いを馳せる季節。来臨の意味は二つ。一つは初臨。二千年前、キリストが救い主として、私たちのために誕生されたこと。もう一つは再臨。キリストが真の王として、私たちを迎えに来られること。今回は、二千七百年前のイザヤのキリスト預言から、キリストの来臨を待ち望む態度を学びます。ということで、12月3日(日)の待降節第一週礼拝は、イザヤ書第7章1節〜17節から、「神の約束を信じて」と題してメッセージでした。

どんな危機の中でも

まず時代背景。今から三千年前に誕生したイスラエル王国は早くに北イスラエルと南ユダに分裂。北イスラエルの王は神様の言葉に従わず、南ユダの王は神様の言葉に従ったり従わなかったり。そして今回の中心人物、二千七百年前のアハズ王は神様の言葉に従わず。巨大化したアッスリヤが迫る中、隣国の北イスラエルとスリヤは対抗するため同盟を結び、南ユダも誘います。しかしアハズはお断り。そこで北イスラエルとスリヤは南ユダに傀儡を立てようとしますが成功しませんでした。アハズはなぜ断った?巨大アッスリヤに助けてもらおうとしたから。賢い?隣国にせよ、迫り来る巨大帝国にせよ、えげつなさは変わりません。私たちが生きる社会情勢はどうでしょうか。どの国も生き残りをかけてしのぎを削っています。大国傘下で同盟したり、互いを傀儡だと牽制し合ったり、国境周辺で小競り合いをしたり。手に持つ武器は様変わりしても、やっていることは昔も今も変わらないのではないでしょうか。

神様の言葉に信頼し

アハズは隣国の兵糧攻めにあった時の水源確保のため、とある水道を視察します。そこへイザヤがきて神様の言葉を告げます。「隣国を恐れるな。燃え尽きようとする切り株に過ぎない。隣国は攻め入ることはできず、北イスラエルは滅びる」と。さらにイザヤは息子シャル・ヤシュブを連れてきていました。名前の意味は「残りの者は帰ってくる」。王として国を守るために考え行動することは大切です。しかしそれと共にするべきことがあった。それが神様の言葉に従うこと。神様の言葉に従うなら将来がある。神様はそれを目で見てわかるように語りかけられました。私たちは目前に危機が迫っていたらどうするでしょうか?何とかしようとあたふたと立ち上がる?パニックになる?我を失う?まずするべきことがある。昔も今も変わらない。神様の言葉に信頼して従う。それが「気をつけて、静かにし、恐れない」態度です。神様の言葉に信頼して従うか、そうでないかで私たちの将来にも決定的な違いが生じるのです。

一つのしるしを求めつつ

神様は『あなたの神、主に一つのしるしを求めよ』となお語られます。しかしアハズは『わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません』と断ります。確かにモーセは『主を試みてはならない』と言いました。アハズはその言葉を守った?いえ。今から四千年前、神様はイスラエルの民をエジプトから導き出されました。しかし彼らは神様が共におられるのか?と不信を露わにし、不平を漏らし、モーセに水を求めました。共におられる神様に信頼し求めればいいだけなのに。アハズも同じ。四千年前のイスラエル放浪時代も、三千年前のイスラエル王国全盛時代も、二千七百年前の危機的状況の中でも神様は変わりなく共におられる。その神様が求めなさいと言われるなら求めればいい。頑なに拒否し続けるアハズに神様の方から『一つのしるし』を約束されます。それが『見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる』でした。インマヌエルとは「神様が私たちと共におられる」という意味です。これが後のイエス・キリストです。

北イスラエルはアッスリヤに滅ぼされ、結局南ユダもアッスリヤに攻め上げられ(やっぱりえげつない。目先の危機はしのげても本当の危機を招いた)、バビロンに捕囚にされ、ペルシャに開放され、なおギリシャ、ローマへと覇権が移り、「ローマの平和」という安定した時期を迎え、「すべての道はローマに通じる」インフラが整ったところにキリストは誕生します。イザヤら預言者の言葉はことごとく実現していきました。神様は世界の流れをことごとく見渡しておられ、神様に抗う人間の営みさえ利用して、救いの道を着々と準備されました。キリスト初臨から再臨までの神様の言葉もやがて実現します。神様の言葉の確かさは長い歴史を通して証明されてきました。私たちが生きる世界もアハズ時代の人々のように『風に動かされる林の木のように動揺』しています。しかし神様は昔も今も変わりなく、私たちに近づき、キリストを示して懇切丁寧に語りかけておられます。私たちはその言葉に信頼し、キリストを求めつつ、自分のすべきことに身を入れ、確かな一歩を踏み出すのです。それが「気をつけて、静かにし、恐れない」でキリスト来臨を待ち望む態度なのです。

12月10日(日)は待降節第二集礼拝。イザヤ書第9章1節〜7節から、「インマヌエルを信じて」と題してメッセージです。

 


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