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ゴスペルだより09ができました

自由の行い〜愛によって働く信仰

ロック。伝統や常識や建前を打ち壊し、自由と愛を叫びます。ロックが流行りだした頃、それまでの音楽や文化に慣れ親しんだ人から激しい批判の声が上がりました。ルーツを辿れば人種差別の苦しみから生まれたものですが、既存の文化、音楽、楽器なくして生み出されませんでした。そして今やロックも音楽ジャンルの確固たる一つ。既存のものが当たり前。新しいものは認めない。理由がどうあれ認めない。認めないどころか徹底排除。そんなことを繰り返していないか?パウロはそんな既存勢力の迫害に直面していました。新しく生み出されたガラテヤ教会がそんな既存勢力に飲み込まれようとしていました。パウロは叫びます『あなたがたの扇動者どもは、自ら去勢してしまうがよかろう』結構ロック!パウロの叫ぶ自由と愛はいかなるものか?ということで、10月25日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第5章2-12節から、「自由の行い〜愛によって働く信仰」と題してメッセージです。

自分の行いが動機か 2-3節

『見よ、このパウロがあなたがたに言う』。パウロこそ、生粋のユダヤ人、ユダヤ教徒、律法学者。割礼も受け、律法に熱烈精進し、彼の全ては律法に動機づけられていました。イエス様を憎み、教会を熱心に迫害し、死に追いやっていました。イエス様と教会の敵。しかし180度変わった。復活のイエス様との圧倒的な出会いで。パウロはイエス様にさばかれるのではなく救われ、今度は教会を生み出す者に大転換。『わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強く抱いている』。パウロもガラテヤ教会も、救いは律法の行いと全く関係がない。イエス様への信仰によって、御霊の働きで、救われる。ただ神の恵み。しかし『あなたがたを動揺させる者』が入り込んできた!彼らはイエス様に結びつける者ではなく、彼らに結びつけようとする者。彼らに向いて聞いて従って割礼を受けるなら、全ての律法を行う必要がある。徹底的に完璧に。しかし律法は「できない」ことを示す「養育掛」。『律法によって義とされようとするあなたがたは』その矛盾をどう解決するのか?前の皮だけでなく、全部切り取ればもう罪を犯せないのではないか?罪を犯す可能性のあるものを次々に切り落とせば、どんな罪も犯せなくなるのではないか?それで完璧か?なんとエグい挑戦状!どうです?そんなことすれば、もう自分でなくなってしまう。罪でないこともできなくなってしまう。何もかも台無し。

神の愛が動機か 6節

『尊いのは、愛によって働く信仰だけ』。『働く』とはエネルギーという言葉の元になっている言葉。コリント人への手紙でもパウロは使っていました。尊いのは愛を燃料とする信仰だけ。尊いのは愛によって生み出される信仰だけ。この愛は神の愛(アガペ)。イエス様が示された十字架の愛。御霊の実である愛。これも私たちから出たものではなく、いただくしかないもの。ただ神の恵み。私たちはこの愛で『走り続け』ることができる。かつてのパウロを知るユダヤ人たちは、今のパウロが全く理解できなかった。パウロはそれを『十字架のつまずき』と表現します。それは元を辿れば、律法学者のイエス様へのつまずきにあるからです。律法学者は律法を一言一句正確に完璧に守ろうとした。真面目、善意の塊、周りからも尊敬されていた。でもイエス様は全然違う(ように見える)。律法を守らない(ように見える)。おまけに律法学者を痛烈に批判し、既存の秩序を破壊する者(に見える)。罪人と呼ばれる多くの人々がイエス様と一緒に楽しそうに飲んだり食べたりしている。緩すぎる!理解できない!憎しみすら感じる!溝は深まるばかり。ついに十字架につけるに至った。イエス様こそ『神の言』。イエス様こそ『律法の一点、一画もすたれることはなく、ことごとく全うされる』お方。なぜここまでの隔たりが生まれたのか?ひとえに、愛を動機としているか、していないかに尽きるのです。

私たちは、自分にとってわかりやすい聖書の一部を「これならできる」「これは無理だろう」などと取捨選択することがないでしょうか。しかしできることを「しなければならないこと」とするなら、他の全てもしなければなりません。『少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる』のです。十戒も十の戒めを守っていればそれでいいというのでも、罪のチェックリストでもありません。その本質は神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい、ということです。その視点に立てば、十と言わずあらゆる面で応用できる。既存のものか新しいかではなく、本質を見失うな。私たちに本当に必要なのは神様の愛を燃料にした信仰。この愛によってのみ、走り続けることができるのです。

11月1日(日)の礼拝は、詩篇第21篇1-13節から、「幸い。楽しませて下さる主」と題してメッセージです。

信仰のタッチ

マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音(良い知らせ)のはじめ(支配)」という言葉で始まりました。イエス様の支配がどんなに良い知らせなのかを記します。イエス様は弟子たちを招き、実践と座学をくり返す中で、その支配や奥義を少しずつ解き明かしてこられました。第5章に来て再びみわざが記されます。3人の癒しと回復のみわざ。前回は1人目「正気になった人」というお話。そして今回は『十二年間も長血をわずらっている』女性のお話。ということで、10月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章21-34節から、「信仰のタッチ」という題でメッセージです。

イエス様、救って下さい! 25-29節

イエス様は会堂司ヤイロの家に向かっておられました。ヤイロの『幼い娘』の癒しのためでした。『大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながらついて』行きました。押し合いへし合いです。そこへ先ほどの女性。女性特有の病。しかも12年間。さらに多くの医者に苦しめられ、スッカラカンになり、病状は悪化していました。血に関する病がある場合、当時の律法では「汚れ」と見なされ、その人がタッチするものも「汚れる」とされました(汚いという意味ではなく、日本語の「気枯れ」と似ている)。治るまで人との接触や町への出入りは禁止されていました。しかしもはや限界。彼女はイエス様に『なおしていただける』と思って『み衣』にタッチ!この『なおしていただける』は『救っていただける』という言葉。「治して下さい」ではなく「救って下さい」!すると速効『なおった(治った)』!彼女がイエス様にタッチすることでイエス様が汚れるのではなく、彼女があっという間に治ったのです。

あなたの信仰があなたを救った! 30-34節

彼女がイエス様にタッチした瞬間、イエス様は『自分の内から力が出ていったことに気づかれ』『わたしの着物にさわったのはだれか』と探されました。「いやいや先生、こんなもみくちゃ状態で、何言うてますのん!」と弟子たち。でも明らかに違うタッチがあった。イエス様はご存じでしたが、彼女が自発的に言い出すのを待っておられました。彼女は恐れながらも『すべてありのままを申し上げ』ました。『ありのまま』とは「真実」という言葉。彼女にとって人混みに突入することも、イエス様にタッチすることもドキドキだったはず。人前で真実を明かすことはもっとドキドキだったはず。でも彼女はイエス様に変えられ、自らも変わったのです。イエス様は『娘よ、あなたの信仰があなたを救った』と宣言されます。信仰のタッチは救いのタッチ。病の癒しは一部に過ぎない。彼女の存在全体が救われ、新しくされる。イエス様は『安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』と、彼女の生活におけるあらゆる癒しと回復のために送り出されました。

マルコによる福音書第1章に「重い皮膚病の人のきよめ」という話がありました。今回の話とよく似ています。でも違うところもある。重い皮膚病の人は、イエス様にさわっていただいてきよめられ、今回の女性はイエス様にさわって救われた。「さわる」という言葉は「灯す」という意味もある。タッチされたかしたか、いずれにしてもイエス様のあふれる力を灯していただいた。ここから言えるのは、「イエス様に遠慮するな」ということです。自分はこんなに汚れているから、こんな問題を抱えているから、こんな悪い人間だから、他の人の方がもっと大変だから、私はイエス様に近寄れない、さわれない、遠慮しておこう…なんて思うな。「イエス様、救って下さい!」とタッチするなら、イエス様は喜んで、イエス様が与えうる最大の救いを、真っ先にドーン!と与えて下さいます。それ以下はないのです。

人には言えない、見られたくない、知られたくない、と思う所ほど手渡す。そういう所ほど、自分ではどうにもできないから。私たちはそういう一番深い所の自分をギュッと握りしめ、どうにもならなくなっていないか?そこをまずイエス様に手渡す(告白する)。それが信仰のタッチ。それが私たちの真実。一番深い所から癒しと回復が始まる。イエス様は惜しみなく力を注ぎ、あなたを温かく、明るく灯して下さいます。

10月25日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第5章2-12節から、「自由の行い〜愛によって働く信仰」と題してメッセージです。

私たちは自由の子

私たちの歴史は自由を獲得するための歴史ではないでしょうか。様々な壁・溝・偏見・差別・隷属・支配を打ち壊しボーダーレスな世界を目指してきたのではないでしょうか。しかしそれらのものは姿形を変えながら大きくなっているのように思えます。自由の拳をあげればあげるほど自由ではなくなっていないでしょうか。パウロは、不自由な自由と本当の自由を明らかにし、いつの間にか自由を失っている私たちと、本当の自由を得ている私たちの姿を教えようとします。ということで、10月11日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章21節-第5章1節から、「私たちは自由の子」と題してメッセージです。

努力によって奴隷の子

『律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか』(4:21)。パウロはガラテヤ教会に入り込んで律法の行いを主張する「偽兄弟」や「割礼の者」や彼らになびくガラテヤ教会を皮肉まじりに挑発します。律法の書の1つ、創世記から、アブラハムの2人の息子について語ります。『またもや…産みの苦しみをする』(4:19)と言った通り出生話から始めます。1人は女奴隷の子。名前は出てきません。ここで重要なのは、パウロが女奴隷とシナイ山とパウロ時代のエルサレムとを関連付けたこと。シナイ山はイスラエルがエジプトから解放されて律法を授与された場所。元々自由の象徴。イスラエルは先の女奴隷とも関係がなかった。なのに。千数百年後、エルサレムのユダヤ人たちは律法の奴隷になっていた。そのエルサレムに教会が誕生したけれど、その中にも律法の行いを主張する人がいて、ガラテヤにまでそれを持ち込もうとしていた。しかしユダヤ人たちは「私たちは奴隷になったことはない!」と自負していました(ヨハネ8:33-35)。でも彼らは血のつながりがなくても、自由だと思っていても、奴隷になっていたし奴隷にしようとしていた。一生懸命努力して。律法は罪から自由になれないことを示し、本当の自由を渇望させる『養育掛(当時、奴隷の仕事)』。しかし「偽兄弟」や「割礼の者」は、『養育掛』をいつの間にか自分の「主人」としていたのです。

約束の子を信じて自由の子

『すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」』(4:27)。アブラハムのもう1人の息子。人間的には不可能と思われていたのに、神様の約束によって生まれたイサク。名前あり。母親は『自由の女』と記されます。ここで重要なのは、パウロが自由の女と約束の子と『上なるエルサレム』とを関連付けたこと。そして自由の女と上なるエルサレムを、約束の子を生み出す存在として重ねます。上なるエルサレムは神の国の中心。神の国の住民になるにはどうすればいい?神様がアブラハムに約束された祝福を、イエス様を通して与えて下さると信じるだけ。『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない』(5:1)。イサクは約束の子の雛形。イエス様が原型。この原型を信じる私たちも約束の子。イサクの名が記されるように、私たちも「いのちの書」に名が記される。神の国はすでに信じる者の内にありますが、やがて上なるエルサレムが新しい天と地に降りて合体し、目に見える神の国が現れることを黙示録は語ります。私たちは血のつながりがなくても、時代や国や人種が違っても、約束の子として等しく「新しいエルサレム」に立つのです。大事なのは、真の自由の子イエス様を「主」とし続けること。すると私たちの内にキリストの形ができるのです。

ここを読んでいると「放蕩息子の話」を思い出します。あれは放蕩息子だけではなく2人の息子の話。弟は父から遠く離れて罪の奴隷。でも悔い改めて父に向きを変えた途端、父が走り寄ってギュッと抱きしめ、家に迎えて大パーティ!一方兄はずっと家で真面目に働いていた。でもその心は父から遠く離れていた。彼は父の「言いつけ」だけを守る奴隷。彼も父の呼びかけに応えてパーティに加わるだけでよかった。父は弟息子の帰りを待ち、兄息子との交わりを望んでいた。兄と弟。律法学者と罪人、ユダヤ人と異邦人、偽兄弟・割礼の者とガラテヤ教会、そして現代の「恵みを忘れたクリスチャン」と「恵みに生きるクリスチャン」に重ならないか?これを語られたのはイエス様。自由を知り、神様との交わりの楽しさを知るには、このイエス様と共にある以外にないのです。

10月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章21-34節から、「信仰のタッチ」と題してメッセージです。

キリストの形ができるまで

30年ぶりに再会した友人が同窓会の写真を見せてくれました。見てすぐに思い出せる人もあれば、名前を聞いて思い出せる人もいます。その真ん中に担任の先生!私たちの目線になって教えて下さった先生。年を重ねておられますが変わらない。私たちにとっての先生のまま。私たちの大人のモデル。その先生と、大人となった友人たちが共に写っている。感慨深いものがありました。『兄弟たちよ。お願いする。どうか、わたしのようになってほしい。わたしも、あなたがたのようになったのだから』とパウロは、ガラテヤ教会に記します。パウロはガラテヤ教会の先生。クリスチャンのモデル。パウロのようになるとは、どういうことでしょうか?ということで、10月4日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章12-20節から、「キリストの形ができるまで」と題してメッセージです。

弱さを受け入れ合う 13-15節

ガラテヤ教会のモデル、パウロ。それは完璧な人を意味しません。自分の弱さを認め、互いの弱さを受け入れる人。パウロが最初にガラテヤに来た時、体調を崩していました。ここから察するに眼の病気だったようです。病気だから福音が伝えられないのではなく、病気でも福音は伝わりました。弱さの中に神の恵みは現れる。ガラテヤの人々はパウロをイエス様であるかのように歓迎しました。彼らはパウロに、どんな環境や状態にも縛られない、自由の福音の権威と恵みを見たのです。自分の弱さを認めないなら自分を偽ることにならないか?相手の弱さを受け入れられないなら相手への傲慢が潜んでいないか?イエス様はどんな弱さを持った人の目線にも合わせられました。その弱さを共に担われました。パウロも弱さを担いつつ、イエス様のようにガラテヤに臨んだのです。『その時のあなたがたの感激(幸せ)は』とあります。弱さを認め、受け入れ合い、福音を信じる。福音を信じ、弱さを認め、受け入れ合う。そこに互いの弱さを越えた感激と幸せがあるのです。

イエス様を中心に考える 16-18節

ガラテヤ教会が誕生し、パウロが新たな宣教旅行に出かけると、ガラテヤ教会は急速に自由の福音を見失いました。パウロを批判の対象、敵扱いするまでになりました。なぜ?ガラテヤ教会が『偽兄弟』『割礼の者』たちに向き始めたからです。律法完璧。いかにも聖人君子。パウロのような弱さは微塵もない。そして彼らはガラテヤ教会に熱心でした。メッチャいい人たち!グイグイ惹きつけられる!私たちもこういうことがないか?パウロもガラテヤ教会に熱心だった。どこが違うのか?誰を伝え、誰を中心としているかです。「あの牧師は間違っている!」「この教会はなっていない!」と言う人が意見の合う人たちと新しい教会を始め、またそのお互いが「あなたは間違っている!」と分裂し、最後はバラバラなんてことはないか?イエス様の教会がその人の教会になっていないか?パウロは、パウロがいなくても『良いことについて』熱心に慕われることは良いことだと記します。『良いこと』とは福音の真理。パウロは、自分や『偽兄弟』『割礼の者』が中心ではなく、イエス様とその福音こそ中心なのだとわきまえていたのです。

キリストの形ができることを望む 19-20節

パウロは『兄弟たちよ』(12節)、『ああ、わたしの幼な子たちよ』(19節)とガラテヤ教会に呼びかけます。『幼な子』とは「性質や精神を受けつぐ者」「具体的な形に表す者」という意味があります。何の性質や精神を受けつぎ、何を具体的な形で表すのか?それがキリスト。イエス様です。パウロは『わたしの幼な子たちよ』と言いながら『キリストの形ができるまで』と記します。パウロがガラテヤ教会を生み出したのは、そして彼にならう(弱さを受け入れ合い、イエス様を中心に考える)のは、キリストの姿に行き着くため。私はいくつもの教会で奉仕してきて思うのは、最初から弱さも問題も隠さないということです。隠していると後々大変。不平や批判ではなく、主の御心がどこにあるか求めつつ、弱さや問題に共に向き合い取り組むことを教えられました。牧師や役員会の意見は大切ですがそれが全てでもない。イエス様は大きく、豊かで、多様なお方。私1人で表せるようなお方じゃない。それぞれの立場賜物視点やアイデアを出し合い、この時この場で何が最善かを紡ぎ出していく教会の営みこそ、キリストの形を造り上げていくのです。

『わたしはあなたがたのことで、途方に暮れている』。檄を飛ばせばいいのか優しくすればいいのかもうわからん!激しい感情と言葉を露わにするパウロもいれば、弱さや困惑を隠さないパウロもいる。トコトン悩み抜くパウロ。誰がここまであなたのことを悩んでくれる?パウロはあきらめない。キリストの形ができるまで。

10月11日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章21節-第5章1節から、「私たちは自由の子」と題してメッセージです。


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